ヨーロッパで数々の美術に触れ、
観察することの重要性を実感
多くの画家たちと同様、日本画の革新に関心を持っていた栖鳳は、自らの画塾で海外の美術文献の講読会を開催するなど、早くから西洋絵画の学習を始め、1900年(明治33年)にパリ万博を視察するためにヨーロッパへと渡る。各地の美術館や美術学校の見学、動物園でのライオンの写生、黒田清輝がフランス留学中に師事したラファエル・コランほか、西洋の画家たちへの面会など活発に動き回って、作品そのものから教育システムまで含む、ヨーロッパの美術の体系を学び、日本での新しい指針作りに生かそうとしていた。
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帰国後、それまで日本の絵画の重要なモチーフとして繰り返し描かれながら、常に想像上の動物として扱われてきた(なぜなら実物のライオンを見る機会がなかったからだが)「獅子」を、スケッチをもとにしたリアルな動物として描いた作品は、大きな反響を呼んだ。跳躍する身体の力強さや、伸びやかに横たわるさま、触れた手を押し返してきそうなたてがみなど、栖鳳は筆線のバリエーションを自在に用いることで、ライオンのライオンらしさを描き出すことに成功した。また、ローマ時代の水道橋を描いた風景画では、モチーフの大小や色彩の濃淡によって、遠近法的な効果を生み出しながらも、水墨による山水図を思わせる感覚を失ってはいない。
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2013.09.28(土)