日本美術史上最大最強の絵師集団

狩野家と血縁関係のない武士出身の山楽は、永徳の画風を忠実に継承、京都を地盤とする「京狩野家」の始祖となった。「唐獅子図屏風」(部分) 狩野山楽筆 京都・本法寺蔵

 琳派や土佐派、住吉派など、日本美術の中に画派は数あれど、室町時代末期の京都に勃興し、江戸時代の終わりまで、約400年にわたって画壇に君臨した「狩野派」こそ、日本美術史上最大最強の絵師集団と言えるだろう。狩野派の「創業者」、狩野正信が初めて歴史の上に姿を現すのは1463年、応仁の乱が勃発する少し前だ。室町幕府の御用絵師として、8代将軍・足利義政やその妻、日野富子の用を務めた。

 それまでモノクロの水墨画と、着彩のやまと絵はそれぞれ専門の絵師がいて、仕事を振り分けていたが、2代目の元信は両者を融合させ、障壁画から肖像画、仏画まで器用にこなした。さらに多数の弟子を養成、寺社や御所など大規模公共工事を受注する、いわばゼネコンとしての体勢を整え、公家や上層町衆まで幅広い層の好みに対応する技法や画風のバリエーションを充実させた。要は伝統的な教育システムの強化と新しいビジネスモデルの導入による絵画事業のイノベーションを実現した、というわけだ。そして元信の孫にあたる永徳こそ、桃山時代を代表する「天下画工の長」である。疾風怒濤の時代とシンクロした、豪快な金碧障壁画は武将たちを魅了し、織田信長の安土城、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)など、天下人が自らの居城を飾るための絵を、永徳に求めた。

 同時代の絵師、長谷川等伯や海北友松らの追い上げを受けているとはいえ、盤石かと思われた狩野派を揺るがせたのは、一門の総帥である永徳の急死であった。押し寄せる注文をこなし続けた末の過労死だとも言われる永徳の死は1590年、48歳の時だ。徳川か、豊臣か、あるいは、という天下の帰趨も定まらない微妙な時期、流動的な事態に対応するため、狩野派は組織を三つに分けた。ひとつは徳川に、もうひとつは豊臣に、そして都の宮廷に。それぞれ有力者とつながりながら、一グループだけでも生き残って血脈をつなげればいいという、凄まじいまでの三面作戦だった。戦国武将たちのように刀をとることはなくとも、筆一本で血みどろの乱世を泳ぎ渡る絵師たちもまた、戦っていたのだ。

 永徳的な豪壮華麗から、新たな支配者・徳川家に対応する瀟洒端麗へ。移り変わる権力の行方を睨みつつ、画風を変化させていった桃山時代後期の狩野派作品を一堂に集めたのが、『桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―』だ。新発見の『北野社頭遊楽図屛風』(永徳の次男・狩野孝信)、『槇に白鷺図屛風』(永徳の弟子・狩野山楽)を含む69件によって、大河ドラマ顔負けの、狩野派による戦いの歴史を紹介する。

永徳直系の宗家ではないものの、狩野派の実権を握った探幽が新時代の規範となった。重要文化財「松に孔雀図壁貼付・襖」(部分) 狩野探幽筆 京都・元離宮二条城事務所蔵

桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち
会場 京都国立博物館(京都・東山)
会期 2015年4月7日(火)~5月17日(日)
料金 一般1,500円(税込)ほか
電話番号 075-525-2473(テレホンサービス)
URL http://kano2015.jp/

2015.04.04(土)
文=橋本麻里