奈良・興福寺の創建1300年記念「国宝 興福寺仏頭展」

 タイトルを見ると「アタマだけですか?」と聞き返されそうな「国宝 興福寺仏頭展」だが、興福寺の寺宝は何も阿修羅像だけではない。藤原氏の氏寺として創建され、摂関期以降には大和一国の大部分を寺領とした巨刹(きょさつ:大きな寺)、興福寺は、明治時代の廃仏毀釈で大きなダメージをこうむったとはいえ、現在でも日本国内の国宝指定仏像のおよそ15%(!)を所蔵している。その膨大な文化財の中でもひときわ異彩を放っているのが、「白鳳の貴公子」と呼ばれる仏頭だ。

国宝 《銅造仏頭》 白鳳時代 興福寺蔵

 興福寺国宝館を訪れたことのある方は、そこに展示されている「仏頭」を覚えているかもしれない。頭部だけで98.3cmもあるこの像はもともと、山田寺の本尊として天武7年(678)に鋳造を始め、同14年(685)に完成した、巨像の一部だった。それがなぜ頭部だけ興福寺に残ることになったのだろう。

被災と再建の歴史の中、頭部のみとなった「白鳳の貴公子」

 興福寺の歴史は、被災と再建の歴史、とも言える。永承元年(1046)の大火、治承4年(1180)の平重衡による南都焼討、さらに建治3年(1277)、嘉暦2年(1327)、文和5年(1356)、応永18年(1411)と、繰り返し火災に遭っては復興を重ねてきた。

 中でも、平重衡による南都焼討では、東大寺と共に創建以来の伽藍(がらん:寺の建物)のほとんどを焼失するという壊滅的な打撃を蒙ったが、建築の復興は藤原氏の権勢を背景に迅速に進められた。しかし造像は遅々として進まず、かつて聖武天皇の発願によって建立された東金堂の本尊として、飛鳥に近い山田寺の講堂にあった金銅製の丈六(釈迦の身長が1丈6尺=約4.85mあったという伝承に基づく仏像のサイズ。坐像の場合は半分の高さで作る)像などの三尊像を移送し、東金堂に迎え入れた。

 その後、応永18年(1411)の落雷による火災で山田寺の像は頭部を除いて焼失。奇跡的に焼け残った頭部は4年後に鋳造された本尊の台座内部に収められたものの、東金堂の解体修理が行われた昭和12年(1937)、約500年ぶりに「再発見」されるまで、その事実は忘れ去られてしまうのである。

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2013.09.14(土)