「酒井の刃傷」 1954年(北村薫・選)

北村 時は9代将軍家重の治世。無能とも言われた老中・酒井雅楽頭忠恭は職を辞した後、前橋から姫路への国替えという栄転の機会に恵まれます。用人・犬塚又内(いぬづかゆうない)らの下交渉によって実現したことで、犬塚たちは忠恭によって重用されることになります。しかし国家老・川合勘解由左衛門(かわいかげゆざえもん)という老人だけは国替えを喜びません。家の由緒や歴史を軽んじ損得勘定で動いている、と若い世代たちに怒りや嫉妬を覚えます。転封後も怒りの収まらない勘解由左衛門は、又内らを斬殺した後、自刃した――という史実に基づいた作品です。こちらと並べて読むことを提案したいのが、久生十蘭「無惨やな」と大佛次郎「夕凪」です。十蘭と大佛の作は、都筑先生がかつて並べて論じています。

有栖川 同じ事件を取り扱った作品を併読するというのは、とても北村さんらしい趣向です(笑)。この刃傷事件自体は、知名度がそう高くはない。それにもかかわらず、松本清張、久生十蘭、そして当時の大流行作家である大佛次郎が書いているとは、贅沢な読み比べでした。

宮部 比較して強く実感したのは、清張さんの事件を説明する手際の良さです。他2作と比べても、事実関係が本当に分かりやすく整理されていました。かつ事件の遠因に徳川家重と大岡忠光の存在があるという展開も面白かったです。一方「夕凪」は、「酒井の刃傷」で事件の流れを把握していないと、何が起きたのかが分かりにくいかなと思います。

北村 清張先生の、人間群像を鮮やかにさばいて、歴史の流れを捉えて書く筆致は、『昭和史発掘』にも通じるものと感じます。かたや大佛次郎の「夕凪」からは、ウィリアム・フライヤー・ハーヴィーの短編「炎天」を想起しました。夕方から真夜中にかけて襲ってくる夕凪の暑さの中で、このような惨劇が起こったのだと強調されています。勘解由左衛門最期の台詞「暑い! 生きておる者はまだまだ暑い」は、けだし名台詞でしょう。翻って「無惨やな」は、あくまで作者である久生十蘭の小説世界という印象を受けます。タイトルの妙も効いています。

2025.08.10(日)
文=有栖川有栖、北村 薫、宮部みゆき