本作『捜査線上の夕映え』のいわゆる親本(文庫の元になっている単行本をこう呼ぶ)は二〇二二年一月に刊行された。その前に「別冊文藝春秋」で全四回にわたる連載が為されており、それは有栖川有栖がコロナ禍以降にはじめて行なった長編連載だった。このことは本作の内容にストレートに繋がっている。物語は二〇二〇年八月下旬に始まり、九月半ばに終わる。舞台となる大阪では最初の緊急事態宣言が五月に解除されて以降、感染状況もやや落ち着きを見せており、今となっては悪名高い(?)日本政府のGoToキャンペーンによって国内旅行が推奨されていた時期である(最初の一文が「旅に出ることにした」の本作は一種の「旅ミステリ」でもある)。そしてご承知の通り、単行本刊行時にもまだまだコロナ禍は続いていた。本作はまさしく「コロナ禍の渦中でコロナ禍を描いた」(単行本あとがきより)ミステリなのである。あの世界的な混乱時にひとりのミステリ作家が何を考えていたのか、どんな想いを抱いたのかが、この小説にはさまざまなかたちで反映されている。そればかりではなく、コロナ禍という問題とはまた別の、複数の意味において、本作は有栖川有栖の円熟ぶりと、新たな境地を示した重要な作品だと私は思っている。このことを多少とも明らかにすることで解説としたい。
事件自体は一見地味とも言えるものである。マンションの一室のクロゼットからスーツケースに押し込められた元ホストの男の遺体が見つかる。男はその部屋にひとり暮らしで、凶器は部屋にあった御影石の龍像。スーツケースは男と交際中で遺体の発見者でもある投資家の女が男から借りていたものを返しに来たばかりで、ゆえに彼女が第一の被疑者となる。やがて男のLINEから元コンパニオンのもうひとりの女の存在が浮上する。二人の女は男を介して友人になっていたが、男が二股を画策していた事実が判明し、第二の女も被疑者に加えられる。被害者から借金の返済を迫られていた不動産テックに勤める男が第三の被疑者、更に被害者と第二の女が一緒にいるところを尾行していたKポップアイドルに似た(だが顔の下半分はマスクで隠れている)謎の男が第四の被疑者。第五、第六の被疑者と呼べる者もいるが、問題は事件の起こったマンションの防犯カメラの映像である。第一の女がスーツケースを返しに来た時と連絡が取れない男を心配して再訪し遺体を発見した時に加えて、第二の女も映像に映っていたが、遺体の状態のせいで殺害された時刻の可能性に幅があり、しかもマンションの各フロアには防犯カメラがなく建物への出入りしか確認することが出来ない。こうして単純に見えた事件は次第に難解なパズルの様相を呈してゆく。
2024.11.26(火)
文=佐々木敦(批評家)