声が小さい人は存在さえ危ぶまれて…

 声は彫刻刀みたいなものだ、とある年配の俳優がインタビューで言っていた。彫刻刀が木からものの輪郭を彫り出すように、声は発されることによって空気中に人ひとり分の存在をつくる。役者は声を駆使してその存在感を身体ひとつ分よりも多くの場所に拡張しつづけなければならない。そんなニュアンスの話だった。

 あくまで舞台で役を演じる上での話だとわかってはいるけれど、声が大きい人の論理すぎるだろ、とそのとき思った。声が人の存在を形づくるとしたら、声が聞こえない人は存在しないことになってしまう。そんなのってさすがにおかしい。声がどれほど聞こえなかろうと、小さかろうと、もっとあらゆる場所に平然と存在したい。というか、こちらは飲み会において、自己紹介において、電車が走る高架下での会話において、声が小さいことを幾度となく謝ってきたのに、声が通る人は小さい声を聞きとれないことをめったに謝ってはくれない。我慢づよく聞き返してくれれば何度だって答えるつもりなのに、たいてい途中であきらめて、曖昧な表情で話を流そうとするじゃないか。どういうつもりなんだ。

 小声への処遇に腹を立てつづけていたあるとき、夜道を歩いていたら、酔った若者3人組が目の前を横切った。彼らは千鳥足で細い路地を曲がり、そのうちのひとりが路地の突き当たりにある飲み屋らしき店の扉を気まぐれにひらいたが、すぐに両手で大きな×をつくりながら出てきた。

「なんか、小声で話せないとだめだって」「なんだそれ」

 彼らが来た道を戻って別の店を探しはじめているのを横目に、私は路地を早足で進み、見知らぬその店の扉を迷いなくひらいた。店の中はなにかの冗談のように暗く、細長く、無音だった。おひとりさまですね、とカウンター越しに確認してきた店主らしき人物の声は驚くほど小さい。頷いて席につくと、メニューらしき暗い色の板がすっと手渡された。なにも見えないので適当な酒を頼む。

 当店ではみなさまに小さな声でお話しいただいております、お客さまにはわざわざお伝えする必要はなさそうですが。店主がなにかへの復讐みたいな目をしてそう言った。もちろん大丈夫だと思います、たぶん、と返すと、店主はほとんど息だけでくっくっくっと笑った。あ、ドの#で笑う人なんだ、と私は思う。

生湯葉シホ(なまゆば・しほ)

東京都在住。ライター・エッセイスト。WEBや雑誌を中心にエッセイや取材記事を寄稿。読売新聞のWEBメディア「大手小町」にてエッセイを連載中。趣味はライブに行くことと香水を集めること。著書に「食べられなかったもの」で振り返る30篇のエッセイ集『音を立ててゆで卵を割れなかった』(アノニマ・スタジオ)がある。
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編集部が注目している書き手による単発エッセイ連載です。

(タイトルイラスト=STOMACHACHE.)

2025.08.29(金)
文=生湯葉シホ