
編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回は、WEBメディア「デイリーポータルZ」を経て、日記エッセイ『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』でデビューし、活躍中の古賀及子さん。褒められずに育った古賀さんがテレビショッピングを「むちゃんこ、褒められたい!」気持ちで観てみたら、幸せに繋がる思わぬ大発見があったお話です。
あるとき友人が、「私はあまりにも、褒められていない」と嘆くのを聞いた。
「家族にも、上司にも、取引先にも褒められない。誰も褒めてくれないから、やる気がおきない」、と。友人はほとんど怒ってもいた。
驚いた。こんなにあからさまに褒められたがっていいものなんだと、その自由さに目が覚めたのだ。
褒められずに育ったなと思う。私は昭和54年、1979年の生まれだ。あの頃は親も学校も、褒めて子を伸ばす発想自体をまだ知らなかったのではないか。むしろ、否定すること、からかうことが気軽に行われ、それこそがコミュニケーションとの考えがまかり通る、荒くれた時代だった。
調べて驚いたのだけど、褒める子育てが日本で本格的に広まったのは、2000年代に入ってのことという見方もあるようだ。1990年代なかばから、じわじわと子どもを尊重する機運の高まりはあった。けれど、褒める、認める重要性はまだ未開拓のまま。2000年をすぎ、育児書のヒットなどを通じて考え方として一般的になっていった。
私は2007年に子を持ったけれど、思えばこの時点でもまだ厳しくふるまうことこそが親であるという規範の存在を、どこかにうっすら感じた。抱っこしすぎると癖になってよくないと、「抱き癖」という言葉がまだあったし、子を肯定する声かけを甘やかしととらえる雰囲気もちょっと残っていた。子を褒める際は、それをわざわざ尊重する手続きが、自分の中で必要だったように思う。
多くの人が、褒められず、むしろ叱られて人生やってきたわけだ。生きていることを「偉い!」と認めてくれるキャラクターがいるけれど、あれはだてではなかった。みんなぜんぜん褒められず、はいつくばってここまでやってきた。泣けてくる。
先の友人は、褒められたい、自分は褒められ足りていないと思えることで、褒めとの付き合い方について、私よりも半歩先を行っている。私など、褒められないのが当たり前で、褒められたいと思う余地すらなかった。
静かに深呼吸し、あたりを見回し、そうして思う。
むちゃんこ、褒められたい。
無策のまま褒められたいと大の字に寝そべったところで都合よく風は吹かないことは、それなりに人生を歩んできたからわかっている。
クレバーにやろう。褒められたいならどうしたらいいか。単純なことだけど、世の中にもっと褒めの量を増やせばいいんじゃないか。古い世のコミュニケーションには、からかいが横行していた。同じように、今度は褒めをもっともっと気軽に横行させるのだ。褒められる前に、こっちから褒める。
もっとちゃんと、人を褒めたい。続々と肯定して、すばらしいと賞賛したい。ついでに自分も受け入れて、よくできたねと認めたい。
褒めという眼鏡をかけてもう一度世界を見てみよう。そう考えていたあるとき、偶然テレビショッピングの放送を観た。販売していたのは、毛玉取りのブラシだ。
2025.06.11(水)
文=古賀及子