
編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回は“虚弱エッセイ”『虚弱に生きる』が大ヒット中の文筆家・絶対に終電を逃さない女さん。自著が重版し「売れた」喜びに浸っていられるはずが、なぜか風呂場でひとり、「こんなことなら、売れなければ良かった」という境地に……? 自分にとって本当に大切なものとは何なのか、考えさせられるエッセイです。
2日前から続いていた軽い腹痛が激痛に変わった朝、真っ先に思い出したのは鯛の刺身だった。
3週間ほど前に刊行した『虚弱に生きる』の重版がかかって1万部を突破し、奮発してスーパーで買った鯛の刺身である。
刺身は健康に良い上に調理が要らない。限られた体力と時間で効率良く栄養を摂りたい私にはうってつけなのだが、いかんせんお金も限られていたため、これまでは刺身といえばカツオのたたきしか買えなかった。しかし当分は印税で財布が潤うので、サーモンでもマグロでも鯛でも何でも買える。やっと、普通のスーパーごときでは値段を気にしなくていい生活ができるのだ。
買った日の夜に食べ、その翌日の昼から下腹部に痛みがあった。痛みの質からおそらく食当たりだろうと察したが、断続的な軽い痛みだったため、さほど気にしていなかった。いつも通りの生活を送り、翌日になっても治らないことに違和感を覚えた。弱い割に、妙に長い。そしてその翌日、つまり鯛を食してから3日後の朝、腸を絞られるような強い痛みに襲われた。
普段から基本的に自炊をしており、家ではだいたいいつも同じものを食べているうえに、食べたものはすべて記録している。健康に気を遣うようになってからは腹痛も減ったし、もともとお腹を壊すことは少ない。直近で食べたものの中で、イレギュラーかつ食中毒を起こすリスクのありそうなものは鯛の刺身しかなかったのだ。
痛みが弱まった隙にうずくまりながらネットで調べてみると、腸アニサキス症の症状に見事に当てはまっていた。
アニサキス症のほとんどは胃にアニサキスが寄生する胃アニサキス症だが、稀に腸に寄生する場合がある。断続的な激しい下腹部痛、吐き気、嘔吐、下痢。胃アニサキス症と違い、生魚を摂取してから数時間~数日後にこれらの症状が出る。
痛みが治まったかと思うとまた猛烈に痛みだし、同時に吐き気を催す。それが約30分おきにやってきて、嘔吐と下痢を繰り返す。
死ぬ! 死ぬ!
持病があるわけでもないからアニサキスごときで死に至ることはほぼないことをわかっていながら、死ぬ! と思った。
同様に酷い生理痛の時も、死ぬ! と思う。生理痛で死ぬことはありえないとわかっていながら。人は、死なないと頭ではわかっていても、痛みや吐き気が一定レベルを超えると、死ぬ! と思う気がする。
その日は土曜日で、すぐに内視鏡検査ができる病院は少なかった。できたとしても、移動中に嘔吐や下痢の波がやってきたらと思うと恐ろしい。
……なぜ、スーパーで鯛の刺身を買って食べただけなのに、こんな目に遭うのだろう。
就職もできなくて、作家としても売れなくて、ずっと貧乏暮らしをしてきて、30歳になってようやくちょっと売れて、普通のスーパーで普通の鯛の刺身を、100g300円くらいの鯛の刺身を、買ってみただけなのに……!
病院を探しているうちに午後になると徐々に痛みが弱まり、波が来るスパンも長くなってきて、ピークは過ぎたように思えた。
内視鏡でアニサキスを除去すれば症状は確実に消えるが、どのみち寄生したアニサキスは放っておいても数日から1週間で死滅するので、今から病院に行くメリットは少ないのではないか。稀に腸閉塞や腸穿孔を引き起こすリスクがあるらしいが、それらしい症状が出たら受診すればいいか……。
文=絶対に終電を逃さない女
