
編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回は、構成作家としてコントライブなどでも活躍されている、文筆家のワクサカソウヘイさんです。動物や旅についてのユーモラスなエッセイが魅力のワクサカさんが今回テーマに選んでくださったのは、「果物のコンプライアンス」。タイトルからは想像もつかない、胸が苦しくなるようなノスタルジーでいっぱいになる一編です。
いちごは、潰すものではなかったか。
いまでは信じられない話であろうが、私がまだ子どもだった頃、いちごはスプーンで潰して食べることが当たり前だった。いちごの模様が刻印された、底の平らな専用のスプーンが、どこの家庭の食器棚にも必ず常備されている時代があったのだ。
水を弾いてキラキラと光る、大粒のいちごたち。それをボウル型の皿に入れて、砂糖をまぶして、牛乳に浸して、専用スプーンでぐりぐりと押し潰す。ぐちゃぐちゃのシェイク状になったそれを、咀嚼もせずに喉の奥へと流し込む。なんて、野蛮なのか。なんて、乱暴なのか。いちごからしたら、山賊に捕まってしまったような気分であろう。しかし当時は、誰もがこの方法でいちごを食べていたのである。
専用のスプーンといえば、グレープフルーツ。これもまた、いまでは考えられないような扱いをされていた果物だ。
まず、半分に切る。そして断面に、たっぷりと砂糖を盛る。それから先がギザギザとした専用スプーンを取り出して、果肉をほじくって無言で口へと運ぶ。蟹ではない、グレープフルーツの食べ方だ。
いちごにしても、グレープフルーツにしても、砂糖を加えられている点が、なかなかに不憫である。そのままで勝負できるはずの実力を、信じられていない。コンテンツの魅力を、低く見積もられている。砂糖にまみれながら、いちごもグレープフルーツも、きっと傷ついていたはずである。しかしあの頃、果物の心情に対する配慮は大きく欠けていた時代であったのだ。「これっておかしいんじゃないですか」、そんな言葉を口にすること自体が間違っているとされた時代であったのだ。
かつてスイカの傍らには、絶対的に食卓塩の瓶が置かれていた。「甘さを引き立てるため、赤い果肉には白い塩を振りかけるべきである」というのが当時の常識だったのである。しかしいま、その常識は絶滅寸前のものとなっている。スイカが糖度を高めた結果なのか、それとも塩をかけることによって現れる甘味は虚構のものだとようやく悟ったからなのか。あと、キャンプ場ではスイカを川で冷やすことがままあったが、あの光景も近年は見かけなくなった。念のため断言しておきたいが、川でスイカは、全然、冷えない。人類はその真実に辿り着くまで、何十年もかかってしまったのだ。時が移ろう中で、「果物のコンプライアンス」は、ひっそりと何度も見直されてきたのだ。
そうやって、果物の過去と現在を想う中で、浮かんでくるのは「リンゴのうさぎ」だ。
高校の昼休み、弁当箱の蓋を開ける。するとそこには、赤い耳を持つ「うさぎ」が私を待っていた。皮にV字の切れ込みを入れられた、くし形のリンゴである。
母の手間がかかったそのリンゴを齧ると、じゅわっと塩水の味が口の中に広がって、それからリンゴ本来の生ぬるい甘さが、慌てて追いかけてくる。取り立てて、美味しいものではない。しかし「リンゴのうさぎ」は、コンプライアンスを維持するようにして、毎日必ず添えられていた。高校生になった息子の弁当に「リンゴのうさぎ」はないでしょ、と気恥ずかしさをいつも感じていたが、それを口にして母に伝えることはなんだか間違っている気がして、黙って受け入れていた。
あのうさぎを見なくなって、どれほどの月日が経っただろうか。
いま、一人でリンゴを食べようとする時でも、誰かにリンゴを食べさせようとする時でも、そこに赤い耳の切れ込みを入れることなど、絶対にしない。だって、めんどくさすぎる。
うさぎにするどころか、くし形に切ることすら、自分のコンプライアンス基準においては昨今、推奨していない。リンゴは、横向きで薄く輪切りにするのが正解である。芯の部分が星の形に見えることから「スターカット」と呼ばれるこの切り方であれば、わざわざ皮を剥く必要はないし、廃棄する芯の部分も最小限で済む。コストパフォーマンス的にも、タイムパフォーマンス的にも、理にかなっている方法だ。
この現代において、「リンゴのうさぎ」というのは、古すぎる考え方であると言わざるを得ない。
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- 文=ワクサカソウヘイ
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