編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回は文筆家・映画監督の戸田真琴さん。毎月のように、不安感、焦燥感、憂鬱感、倦怠感、閉塞感、劣等感、絶望感、嫌悪感、恐怖感……に翻弄され、支配される「私」。ままならない「私」を抱えながら、それでも生きていくために、「私とは何か?」と問い続けます。

 月に一度、私は悪魔と散歩する。

 というのは私の思い浮かべているイメージの話で、実際に悪魔に変化しているのはこの私だし、この日、悪魔と散歩させられていたのはKという私の親しい友人だった。

 私は理由のわからない拒絶感に苛まれていて、道の途中で立ち止まり、頭に思い浮かんだとおりに「無理」と言った。彼は心配そうに「今日は解散にする?」と聞くが、私は重ねて「なんか、無理」とだけ発し、あてずっぽうな方向へ歩き出した。

 4月のパリは気温も上がり、もうスカーフも要らなくなった。悪魔は滞在する18区の移民街を恨みのこもった足取りで歩き続ける。道には明らかにマルボロではないものを売るマルボロ売りや、何かを大きな声で空中に向かって喋っている人などが、それぞれのあり方で立ったり座ったり歩いたりしている。本来スリに警戒して歩くべき地域で、街に慣れたKはわたしを心配そうに振り返るが、今日の私は悪魔なので、視界に自分を案じる人がいるという事自体がなぜだか癪に障る。私は周囲に対して覚えのない憎しみでいっぱいの目を向けているのに、私を心配することのできるKは、その振る舞い自体で私と同じ苦しみの中には居ないということを明らかにしている。彼がとても上等で、自分が野蛮な生き物に思え、劣等感がこみ上げる。理不尽な恨みを向けないために視界からKを締め出そうと歩幅を狭めているうちに、そのことに気づかない彼がだんだんと遠くなり、人混みの向こうへ消えていく。

 悪魔の中にはひとつの考えが浮かぶ。このまま隙を見てビル陰に隠れて、どこかへいなくなってしまおうか。これ以上人を傷つけて恥を増やすことになるのなら、今すぐ消えてしまいたい。

 想像してみて、結局行動には移さない。どうせ、どうなっても数時間以内には発見され、迷子センターに親が迎えに来たときの子どもみたいにバツの悪さを味わうだけで、もうなんにも良くならない。

 こんな感じで、呪いを振りまくだけだから早く成仏したいけどできなくてしんどい、みたいな霊とかもいるんだろうな。とかろくでもないことを考える。普段の私は霊の存在を特に信じていないのに、悪魔に乗っ取られているときの私は、そうであることを忘れている。悪魔とか霊とか適当な単語に置き換えているけれど、これは月経前症候群、その中でも気分障害にあたるPMDDにまつわるエピソードである。

 月経自体は特段重い方ではない(たまに強烈な痛みで半日動けなくなる月もあるけれど、それはかなり稀で、普段は痛み止めでしのげば日常生活に難はない程度だ)。しかし、月経前症候群による体調と精神状態の変化には毎月ひどく悩まされている。低用量ピルの服用で症状を軽くしていた頃もあったが、副作用のむくみがひどく、毎朝自分の顔を鏡で見るたびに落ち込み、これはこれで精神によくないなと思い、断薬をして久しい。

 私の場合は、何度かに分けてホルモンバランスの乱れが大きな波として訪れる。それは不安感、焦燥感、憂鬱感、倦怠感、閉塞感、劣等感、絶望感、嫌悪感、恐怖感などあらゆるネガティブな感情として現れ、私の精神をぼろぼろになるまで侵す。月経の10日前くらいに一回目の大波が来て、1、2日で落ち着きを取り戻し、また3日前くらいにもっと大きな波がもう一回やってくる。そしてひどい鬱が明けてきた頃、ようやく出血がある。出血と激しい腹痛の中で、私はようやくホッとする。これで今月も終わりだ、今回もなんとかひとを殺さなかった。飛び降りもしなかった。ここから良くなる、わたしはわたしを取り戻せる、と。

 まだ慣れないパリのメトロに乗りながら、今日中に済ませなければならない用事をなんとか遂行しようと身体を動かすけれど、PMDDの及ぼす精神の悪状態が一向によくならない。

 Kはそれに付き添ってくれていて、乗り換えのタイミングや出るべき出口をそっと教えてくれようとするが、それをありがたく思う私と、そのくらいわかってるよ! と逆毛を立てる悪魔が、身体のなかでせめぎ合っている。私はなんとか悪魔に口を開かせないようにGoogleマップを凝視し、これ以上迷惑をかけないようにと自分に言い聞かせながら目的地の位置を覚える。もしも彼が道順を教えてくれずに私が間違えて遠回りをしたとして、私の苛立ちはきっと増すばかりだろう。しかし、教えてくれている今も、悪魔はとにかく自分が正当にイライラするための理由をこじつける。“こうして道順を教えてもらったせいで私は自分で調べて失敗をする、という学びの機会を失わされたのだ。それは屈辱的なことだ”と悪魔が理不尽に怒っている。悪魔と化した私と歩いているKも、悪魔を飼いながら歩いている私も、揃って全問不正解のゲームをやらされている。選択肢が浮かび上がるがどっちを選んでも必ず不正解になる最低のゲームを。今はすべてが駄目になるからどうか放っておいて欲しい、だけれど実際に放って置かれたらきっとあなたを憎んでしまう、だからどうか針でぶすぶすと身体を刺されながら痛みに耐えて離れずに居てください、きっとそれしかないんです。そう冷静に自分の希望を整理してみると、あまりの傲慢さに乾いた笑いが出る。

2025.05.16(金)
文=戸田真琴