なぜ私は、月に一度狂った女に変化しなければならないのだろうか

 なぜ私は狼男のように、月に一度狂った女に変化しなければならないのだろうか。これは何かの罰なのだろうか、と毎月真剣に思う。普段の、まともでいられる時間に築き上げてきた好印象や信頼のすべてが、数日間のホルモンバランスの乱れによって跡形もなく崩れ去る。ふるいたくない暴力をふるい、家を焼き、街を追われてゆくしかない身体。安寧の場所を失い続ける身体、なにかを積み重ねて高みにたどり着く、ということを成し得ない、その日暮らしの身体。月に一度身体に新しい生命を迎え入れる場所を準備し、そのおとずれを待ち、それが果たされないと察するたびに内臓の内壁をみずから剥がして排出し、すべてを流してしまう身体。

 このシステムに怒りをおぼえるのは、私が私自身に対し、なにか“確固たる私”のようなものがあると信じているからなのだろう。毎日調べて点検して調整して自らの意志で作り上げた愛着のある「私」というものが存在していて、その人がこの身体の操縦権を握っているはずなのに、毎月どこからかやってきた悪魔に無理矢理に操縦権を奪われている、といったような、被害者意識が私にはある。

 だけれどそもそも、月経や月経前症候群に限定されず、私たちは怪我や病気や老いなどによって「私」を自分の意志以外の他のなにかに明け渡さなければならなくなるときが必ずやってくる。そのときに私は、「私」を悪魔に奪われた、という意識のままでいて本当に良いのだろうか?

 このことを精神的に乗り越えることができないのなら、生きていくこと自体を恐れなければならなくなってしまう。ただ、これから悪くなっていくだけのような……そういう意識で生きていくことが、そうあるべき生命の姿だとはやっぱり思えないのだ。悪魔がどんなに強引で、傲慢で、憎らしい存在でも、この悪魔がいない私というのはそもそも、ないのだ。悪魔は外からやってきたのではない。薬で眠らせることができたとしても、いないことにはならない。

 私は無意識に、「私が愛せる私」のことを、「本来の私」なのだと信じようとしていなかっただろうか? と、自問する。

 している、私は絶対している、ほんとうに私ったらそういう狡いところがある。認める認めない以前に既に居るものを、自分が気に食わないとか、プライドが傷つくとか、そういう理由で「私」から除外して、“私は違うんです、あいつが勝手にやったんです”と、“どうして私がこんな目に”と、被害者として泣いてきたのだ。

 もちろん、そうして切り離すことで心を守るやりかたもあることは承知の上である。これはそういう手法を取っている人たちを糾弾するための文章ではない。私だって、PMDDで精神がめちゃくちゃになっているときを指さして、「本来お前はこういうやつだ!」と言われたら、身体のメカニズムから説明して厳重に抗議するだろう。だけれど、そもそも私がなにか一貫したわたし然としたものであらねばならない理由も、快いコミュニケーションを紡げるわたしでなければならない理由も、わたしの外にあるように思う。そもそも社会の形成より前に今のかたちにほとんど完成していた種である人間が、あとからできた社会、しかも常に常識が変わり続けていて今最新の状態がたまたまこうであるこの社会の方に合わせなければならないとされ、適応が困難である場合に劣等者の烙印を押される、などということは、根本的に間違ったことなのではないかと、よく考えたら当たり前のことを改めて思う。

 そもそもわたしがわたしのわたしだと信じているわたしは、本当に私の司る私だろうか? 私が愛でている私でさえ、この身体が世界から摂取したものでつくられ、ホルモンバランスやその日の気候や体調によって世界の見え方が変わり、私はつねに固定されず、わたしという空洞の中をわたしでないものが駆け抜けていくこと自体をわたしと呼ぶ、本来「私」というのは、そういう仕組み自体のことだったのではないだろうか。

 駆け抜けていくもののなかに、それ自体は良いものとも悪しきものとも分類しようがないあらゆるものがある。ホルモンバランスからくる大きな波も、空腹や満腹も、いい匂いを吸い込んで脳がゆるむようなことも、文字を読んで影響されること、忘れながら思い出しながら知りながらまた忘れてゆくことも。

 悪魔と呼ぶのはやめるにしても、獣じみたなにかだとして、自分以外のすべての生命を警戒して逆毛を立てる野蛮な猫みたいなコレを、愛せるとか愛せないとかそういう基準ではないところで、「ある」ものとして生きてゆくことはできるだろうか。誰にも申し訳なく思ってはいけない。獣に振り回されたことのある者同士は少なからず理解をし合うことができるはずだし、この獣を知らないひとにとっては、コレがこの世にいるのだということを知ること、まるで自分のなかにいる獣に手を焼くようにこの現象にコミットすることが、ただ経験となるはずだ。苦痛を感じ取る人自身が損をしているのではない、どちらかというと損をしているのはそれを感じ取る機会を得られなかった人であって、苦痛の詳細をそうでない人に伝えることは、なんと全体にとってよいことなのだろう……。

2025.05.16(金)
文=戸田真琴