編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回はPOP思想家・文筆家であり、昨年11月に第一歌集『抜け出しても抜け出しても変なパーティー』(左右社)を刊行された水野しずさん。「殺人」「殺気」「殺意」「アウトレイジ」……物騒なワードで紡がれる切れ味の鋭さと破壊力抜群の笑いに圧倒されるエッセイです。

 スーパーモデルは全身から殺気を放っていた。生きていくのは大変だ。そんなことを思った。私はのんきにヌードルをすすった。

 スーパーモデルはすごい。彼女の自らに対する厳しい目線が頑強なノミとなって生存の極限まで肉体を削り取っている。彼女の、と性別を限定してしまうのは、特に女性が産める側の性として授かった自らの身体に向けるノミの先端、マッターホルンのような急斜面に、より克明な死の決心を感じてしまうからだ。自らの生存を根本否定する情動が生きる糧になっている。殺意の彫像である。そんなものを「美しい」と感じて、彼女らが醸造するイマジネーションのとりこになってしまうのだから、我々ホモ・サピエンス全体の感性もそうとうやばい。私はくちびるのはじについたヌードルのネギをペロペロしながらそんなことを考えた。

 二十代半ばのころ、私はさまざまな副業をしたが、その中のひとつにモデル業があった。とはいえ、企業広告に抽象的な女性として出るようなことが多かったので、スーパーモデルの方と隣接する機会はそうない。ファッションショーの楽屋で直近に見たスーパーモデルの方は、放つ殺気の総量が尋常ではなく、おどろかされた。

 モデルとスーパーモデルはなにが違うのかと聞かれたら正直、よくわからない。自分の中で、マーケットとスーパーマーケットの差くらい判然としない。ただもう、見た感じの説得がすごい。目の前で草津温泉の湯畑くらいの規模感で殺意の湯気を立て資本主義の熱視線の先端に君臨している凄みがある。それで、

「ああ、なんだかこの人はスーパーモデルなんだなあ」

 ということを思った。違ったらごめんなさい。実際にはわからないが、私はそう感じた。スーパーの境界線は、肉体を削り取る意欲に殺意が滲むかどうかの差、ではないかと思う。

 ふつうのモデルさんは肉体を殺そうとまでは思ってはいないんじゃないか。少なくとも、建前上は美と健康が両立した雰囲気を出しておくのがセオリーではないだろうか。現実的にはスーパーではないモデルさんをやるのだって後ろ暗い格闘と無縁ではいられないと思うが、少なくとも誌面上であるいはディスプレイ上で美と健やかさとオーガニックの雰囲気が併存した感じを出している。発信内容もチアシードや発酵食品など、美と健康が一石二鳥で得られそうなテイストのものが多いのでないか。

 それがスーパーとなってくると、反転して健やかさのテイストが消し飛ぶ。実際の生活実態は知らないが、スーパーモデルさんは市営バスには乗らなそうだし、粗大ゴミ回収券の購入経験もなさそうである。スーパーモデルは生活に全面抗争を仕掛けている。

2025.03.14(金)
文=水野しず