編集部が注目している書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」の第10弾。マッチングアプリを通して、スマホの向こうの誰かと日記を送り合う日々を綴った書籍『ティンダー・レモンケーキ・エフェクト』を刊行した葉山莉子さん。葉山さんは、なぜ見知らぬ人たちに日記を送り続けたのか? 日記とセルフケアの繋がりに着目したエッセイです。
「どうしてTinderで日記を送ろうと思ったんですか?」
わたしは「日記」という名前でTinderに登録して、プロフィール欄に「日記を送ります。日記を送ってください」とだけ書いて、日記を交換する相手を探していたことがある。そのとき、日記を送った相手からいちばん聞かれた質問がそれだった。
「日記」になる前のわたしは、だれとマッチしても疲弊し、チャットだけのコミュニケーションに限界を感じていた。女ということがアドバンテージになるのか、マッチすることはたやすかった。けれど、安心して会話を進めていけることはほぼない。だって、いつだれに攻撃されるかわからない。セックスするのしないのって、性的なジャッジに突然さらされて、その気がないとわかると、無遠慮に暴言をはかれることが日常茶飯事だった。
そんなうんざりすることから逃れて、やっとの思いでたどりついた相手とも、うまく会話を進めていくことができない。お仕事はなんですか? お休みの日はなにしてるんですか? 最近おすすめの映画はありますか? そういう定型的な会話を律儀に打ち返しても、相手との距離が縮まる感覚はない。お互いに興味があるのかないのかわからない、無意味なレスポンスがつづいていく。わたしのコミュニケーション力が不足しているんだろうか? わたしには想像できないだけで、このアプリのなかでも人と人との豊かな会話はあるんだろうか。心ない言葉に自尊心は削られていき、心通うような会話もできない。まるで、自分がつまらない人間だとつきつけられるようだった。
だから、わたしはチャットという会話のコミュニケーションを拒絶した。会話をすることをやめたらいいのだ、そう思った。会話をしなければ、暴言に怯える必要はないし、コミュニケーション力の低さを悲観することもない。ただ、わたしがなにを考え、どう過ごしているのか、だれかが知ってくれさえすればいい。わたしがいまここで生きていることを知ってほしかった。画面の向こうで、だれかの存在を感じ、わたしの存在を感じてほしい。それだけでよかった。だから、わたしは日記を送りはじめた。
プロフィールにつられて、おもしろいね、日記を送ってくださいとメッセージをくれた人がいた。そのうち、何人かは日記としてわたしに生活を晒すようになった。そこにあるのは、たわいもないそれぞれの日常だった。日記の中に、曲を聴いたとあれば、在宅勤務をしながらその曲を聴いた。夕飯につくったとあれば、それを次の日のランチにした。仕事でミスをしたとあれば、タスクから漏れてしまった仕事を慌ててこなした。愉快な飲み会であったとあれば、LINEグループで友達を飲もうと誘った。好きな相手を想ってつらいとあれば、どうにもならない人寂しさを思い出した。
そうして日記を介して、だれに話すでもなかったそれぞれの日常が、わたしの日常にもゆるやかに流れ込んでくるようになった。ほんの少しだけ、見ず知らずのだれかと日常を重ねあわせることで、なんだかわたしは癒されていた。誰かの日記を読むことは、誰かの生活を傍らに置くことであった。日中は自分の生活に追われても、夜にスマホに届いた、それぞれの生活が光る。その光に、わたしは励まされていた。
だれかの日記を読むことは、その人の考えを受け取り、そしてゆっくりと咀嚼していくことでもある。日記として書かれたことをただ受け取る。だって、日記はその人だけのものだ。その暗黙の了承があったから、わたしは安心して日記を書くことができたし、相手も日記を書いてくれていたと思う。
2024.02.21(水)
文=葉山莉子