
編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回は出版社rn press代表で文芸誌「USO」編集長を務める野口理恵さん。中3の時に母、その後、父と兄を失ってこれまで生き延びてきた道のりを描いた初の著書『生きる力が湧いてくる』(百万年書房)にも通じる、誰も住んでいない実家じまいになぜ何年も踏み切れないのかを考えるお話です。
スポンジに洗剤をつけて、ぐじゅぐじゅと泡立てていると、決まって思い出すことがある。
「そろそろ家屋を壊して更地にしようか」
「農地、どうしようかな」
頭に浮かぶのは、積み残した実家の整理のこと。
両親と兄が亡くなったため、私の実家の一軒家にはいまは誰も住んでいない。大学入学以降、東京で暮らし続けて四半世紀以上経つ私は、なかなか実家を取り壊すふんぎりがつかない。実家の駐車場に停まっている兄の車も、バッテリーがあがって廃車状態なのだけど、ナンバープレートを返納せず、いまでもずっと自動車税を払い続けている。相続で私名義になった広大な農地は、まったく借り手がつかない。一昨年は農地に自生した木を抜根するために重機を手配し、数十万円の出費があった。出費ばかりがかさむから、実家も、車も、農地も、いっそ、すべてを手放してしまおうかと思うのだが、なかなかその一歩が踏み出せない。
台所に立つと、毎回、そんなことを必ず思い出す。毎回なので、もはや「思い出す」というよりも、日々の所作に組み込まれた習慣に近い。
ところが、せっせと皿を洗いながら「実家の整理をしなければ」と頭に浮かぶのだけど、台所を離れたとたん、嘘みたいにすっかり忘れてしまう。そしてぼーっと日常を過ごし、再び台所に行くと、また実家のことを思い出す。これの繰り返し。だから実家の片付けがいつまで経っても進まない。いい思い出なんてほとんどないのに、実家のことが毎日頭をよぎるなんて、やれやれと思う。早く片付ければいいという話ではあるのだけど。
どうして台所に立つと実家のことを思い出すのだろうと自分でも不思議でしかたない。でも、よくよく考えると、ひとつだけ心当たりがある。たぶん、中学三年生のときに台所で大怪我をしたことがあるせいだ。
私は昔から不器用で力加減がわからず、洗い物をしているとき、よく皿やコップを割っていた。「どれだけ力が強いんだよ」というご指摘を受けそうなものだが、キュッキュではなくギュッギュと洗いたくなってしまう性分なのだからしかたない。
夏休みの朝、私は溜まっていたガラスのコップを黙々と洗っていた。
「いたっ」
と思って指を見ると、どくどくと血があふれていた。割れたガラスで左手の人差し指と中指のあいだの肉を、ぐりっとえぐってしまったのだ。肉の隙間からは少しだけ白い骨が見えていた。
「あ、これは大変かも」
と思った次の瞬間には、頭がくらくらして床に座り込んでしまった。
台所と食卓の先にあるリビングでは、夜の仕事を終えた父が、真夏なのに出しっぱなしのこたつの中でいびきをかいていた。私は、
「父はあてにならない。自分でなんとかしないと」
と、咄嗟に思ったが、どくどく血があふれる指を布巾で押さえても止まらない。しかたない、これは父に頼るしかない。
「ねえ、お父さん、コップ割って、ケガした」
私は寝ている父に声をかけた。
父に話しかけるのは母が亡くなって以来だった。父は面倒くさそうに目覚めるが、どうもたいした怪我ではないと思っている。私は力を振り絞って立ち上がり、父の横にへなへなと座る。そして父は私の血を見たとたん、ものすごい勢いで飛び起きた。
「ちょっと待ってろ!」
父は大きなバスタオルを持ってきて「これを巻いて押さえろ」と言う。言われるがままタオルをあてるが、うまく力が入らない。
「行くぞ」
私は父に引っ張られて車に乗り、市内の外科病院に向かった。途中、荒川大橋から見えるラグビー場をぼーっと眺めながら、「予約はいらないのかなあ」「救急車じゃないんだ」などと呑気に考えていたが、どんどん気持ちが悪くなってしまった。
病院に着くなり緊急処置を受け、幸運にも神経をうまく避けていたため、手に後遺症が残ることもなかった。その後、何回か通院したが、傷口はケロイドになって痕が残ってしまった。
三十年近く経ち、傷跡はだいぶ目立たなくなってきたが、酒を飲んだりすると少し赤みを帯びる。傷を治そうと不恰好に盛り上がった肉を見ると、生命力の強さを感じる。
2025.07.04(金)
文=野口理恵