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強武装を誇った開陽丸
中央にはハンモックが吊るされ、六体ほどの人形が寝入っていた。展示品に触らないで、という意味だと思うが「起こさないでください」というフリップがあり、なんだか和んだ。
前述のとおり、開陽丸は江差沖であえなく沈んだ。明治のころから散発的に金属類の回収が行なわれたが、船体がある場所は不明だった。江差町教育長の熱心な運動で調査が行なわれ、海底でばらばらの船体が発見されたのは昭和四十九年。場所は現在の記念館にほど近い、江差港防波堤のすぐそばだった。
以後、引き揚げられた遺物は三万点以上に上る。海水から沁み込んだ塩分を抜くなどの保存処理は江差高校化学クラブの生徒たちが行なった。
遺物は記念館で惜しげもなく展示されている。歯車、ネジ、油さし、ナット、工具、ばね、石炭など機械文明の破片。西洋の文化圏から届いた薬剤のガラス瓶、革靴、ベルトのバックル、洋皿やフォーク。和の情緒たっぷりの瀬戸物、キセル、わらじ、櫛、刀。その量と種類には圧倒されてしまう。薬莢や銃弾、球形や椎の実状の砲弾など、軍艦らしい遺物はそれこそ夥しい数に上る。並んでいた大砲も引き揚げられた実物だ。江差の海底は、幕末という時代をまるまる保存するタイムカプセルになっていた。
船尾に飾られていた葵紋の銅板も展示されている。いまなら大河ドラマでもおなじみであろうフタバアオイの葉が三枚配された徳川家の家紋だが、銅板は葉でなくハートが並んだ形になっている。開陽丸を建造したオランダの技術者が、微妙な勘違いをしたらしい。
強武装を誇る開陽丸は、匹敵する軍艦を持たず手出しできない新政府軍を尻目に悠々と蝦夷地に渡り、そして暴風雪に沈んだ。その巨砲が敵艦を沈めることはなかったけれど、追撃を抑止するという形でぞんぶんに働いたと思いたい。ハートの紋章を使っていたのも、何かの因縁かもしれない。
2023.11.16(木)
文=川越宗一
写真=橋本篤
出典=「オール讀物」2023年11月号