この記事の連載
現在、日本に約3,300基ある灯台。船の安全を守るための航路標識としての役割を果たすのみならず、明治以降の日本の近代化を見守り続けてきた象徴的な存在でもありました。
建築技術、歴史、そして人との関わりはまさに文化遺産と言えるもの。灯台が今なお美しく残る場所には、その土地ならではの歴史と文化が息づいています。
そんな知的発見に満ちた灯台を巡る旅、今回は2018年に『銀河鉄道の父』で第158回直木三十五賞を受賞した門井慶喜さんが香川県の鍋島灯台を訪れました。
》安倍龍太郎さんの“灯台巡り”の旅、全6回の第1回を読む
》阿部智里さんの“灯台巡り”の旅、全3回の第1回を読む
「灯台」の起源とは
灯台。
というこの現代では何ということもない一語を見るたび、胸がうずく。
同情というか何というか。しいて言葉にするなら、
(かわいそうだな)
あたりが近いように思われる。
たとえて言うなら制服を着た中学生がまわりを屈強な男にかこまれて、いまにも殴り倒されそうで、知恵も体力もかなわないのに必死で「俺は強いぜ」と胸を張っているのを見るような、そんな痛ましさを感じるのだ。
灯台という語は、もともと日本語にはなかった。
「灯明(とうみよう)台」ならあった。これは江戸時代に、夜間の船の通行の安全のため、日本各地の岬などに建てられたもので、多くの場合は木造だから風に弱いし、あかりは油の火だし、レンズを使わないから光が遠くへ届かなかった。
いうなれば前近代的な航路標識、ないよりはましという程度。これが幕末期には西洋各国のこぞって難詰するところとなった。
「あぶなっかしくて仕方がない。早く近代式、西洋式のものを建てろ」
と、江戸幕府に対してことさら大声で主張したのは、当時いちばん艦船をたくさん派遣していたイギリスだったにちがいない。西洋各国は慶応二年(一八六六)、改税約書という条約――厳密には条約の改訂協定――によって正式にその建設を約束させたけれども、このときの条文では、幕府側の翻訳ではやはり「灯明台」の語がもちいられている。
従来の語をあてはめたわけだ。この協定にもとづく最初のそれが完成し初点灯したのは明治二年(一八六九)一月一日、すでに幕府は滅びていて、かわってこの事業を受け継いだ新政府は、この施設に「観音埼(かんのんさき)灯台」という名をつけた。
すなわち「灯台」という新語を示したのである。その背後にはもちろん、旧来とは違うのだ、文明開化の産物なのだという弾むような気分があっただろうが、しかしもうひとつ思い合わさなければならないのは、この時期の政治用語としての「台」の意味である。
鎮台、砲台、海軍観象台(のちの天文台)などの語に顕著なごとく、国家的規模のイメージがある。もっと言うと対外的な示威の印象が濃厚なので、英語では灯台はライトハウス lighthouse、ふつうに訳せば単なる「灯りの家」にすぎないことを考えると、いかにも構えが大仰すぎる。
ただ何となく「灯明台」の「台」を踏襲したわけではないのである。まことに当時の日本は中学生だった。まわりを欧米という屈強な男にかこまれて「俺は強いぜ」と胸を張るしか生きるすべがなかったのである。
(なお厳密に言うと、江戸時代にも「灯台」の語がなかったわけではない。たとえば「灯台もと暗し」という諺もあったけれど、これは室内照明用の小道具をさした。木の棒を立ててその上に蝋燭を立てたり、油皿を置いたりするものだから、根本的に話が別である。)
2023.06.03(土)
文=門井慶喜
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2023年6月号