この記事の連載

「灯台の父」によって設計された鍋島灯台

 鍋島灯台である。岡山と香川のあいだ、ただしだいぶん香川寄りの海の上にある。今回、リレー紀行の企画を練っているなかで、「オール讀物」編集部の嶋田美紀さんから、
「鍋島灯台に行きませんか」

 という誘いを受けたのは、だから私には僥倖だったわけだが、その季節がまた理想的だった。桜の季節。コートやダウンの類のいらない、そのぶん旅がしやすい時候。

 しかも当日は天気がよく、風もなかった。私はこれまで歴史の現場を訪ねて四十七都道府県すべてに足を運んでいるが、これほどおあつらえ向きの旅というのは案外ないものである。自然と心も軽くなった。

 カメラマン橋本 篤さんの運転する車に乗って、本州側から瀬戸大橋を渡り、ただし渡りきる前に与島パーキングエリアに立ち寄る。ここの駐車場で案内役の海上保安庁の方々と会い、彼らの車に乗りかえて一般道へ入り、漁港のようなところで車を降りた。

 そこから十分ほど歩いた。与島も鍋島も元来は島の名前で、むかしは渡し船で行き来していたそうだが、いまはコンクリートの防波堤が道路の役割も果たしていて、歩いて渡ることができる。鍋島はなるほど鍋を伏せたような半球状の島だった。

 入ったら、けっこう急な山道である。海がぐんぐん足の下で小さくなる。のぼりきったら視界にいきなり白い灯台があらわれて、つい、

「おっ」

 と声を出してしまったが、この「おっ」には、もしかしたら、その背の低さに対する驚きもあったかもしれない。

 この灯台は、わりとずんぐりしているのである。もっともこれは本来の機能を考えれば当然のことだった。灯台というのは要するに高いところで光を発すればよく、最初から山の上(といっても大したものではないが)につくるなら、わざわざ蝋燭みたいな灯塔を立てる必要はないわけである。時刻はお昼前だったから、灯台にとっては休息のひととき、まるで昼寝しているように見えたのはこっちの感傷のせいか。

 ほかに人の姿はなく、まずはぐるりと歩いてみた。案内役のひとり、海上保安庁高松海上保安部交通課長の間賀巧さんが、

「この灯台、設計はブラントンなんです」

 その言いかたが、何というか、ちょっと親戚を自慢するような感じだったのはうれしかった。リチャード・ヘンリー・ブラントン、慶応四年(一八六八)に来日したイギリス人技術者で、日本各地で洋式灯台の建設にかかわり、こんにち「灯台の父」ともいわれる。

 帰国は明治九年(一八七六)だから、在日期間はほぼ八年間である。今回は詳細に述べるゆとりがないが、たとえば太平洋岸でも、さっき挙げたもののうち頭にBのマークをつけたのは彼の設計による。

 つまりはそれほど日本史にとって重要な人物なのだけれども、間賀さんにとっての彼はそういう単なる知識であるよりももう少し親しい、人肌のにおいのする存在らしかった。ブラントンが単に灯台のみならず、それを自分でつくることのできる日本人技術者をも育成してから帰国したことと何か関係あるかもしれない。或る意味では、ブラントンは、海上保安庁の創立メンバーのひとりなのだ。

2023.06.03(土)
文=門井慶喜
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2023年6月号