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 現在、日本に約3,300基ある灯台。船の安全を守るための航路標識としての役割を果たすのみならず、明治以降の日本の近代化を見守り続けてきた象徴的な存在でもありました。

 建築技術、歴史、そして人との関わりはまさに文化遺産と言えるもの。灯台が今なお美しく残る場所には、その土地ならではの歴史と文化が息づいています。

 そんな知的発見に満ちた灯台をめぐる旅にみなさんをご招待。

 第1回となる今回は直木賞作家・安部龍太郎さんが石川県七尾市・能登観音崎灯台を訪れました。能登半島における日本海海運において重要な役割を果たしてきた灯台の魅力と歴史を紐解きます。

 前篇では能登観音崎灯台の成り立ちを「のと里山里海ミュージアム」館長の和田学さんと振り返りました。後篇では歴史的背景をから、さらに深堀りしていきます。


気多大社と小口瀬戸の支配権。灯台と地域から歴史を考察する

「この航路は日本海海運と直結していますから、古くから争奪戦の的になってきました。越後の上杉謙信が七尾城を攻めた時も、この周辺の漁村を懐柔して身方につけたと言われています」

 和田さんは歴史にも造詣が深く、実証的で公平な視野を持っておられる。前田利家が能登、加賀の大名になってからも、このまわりに息のかかった者を配して航路の安全と支配をはかったそうである。

「このあたりには鵜捕部(うつとりべ)の方が住み、気多(けた)大社に奉納する海鵜を捕る権利を代々受け継いでおられると聞きました。それはなぜでしょうか」

 私は長年気にかかっていた疑問を口にした。

 毎年12月、羽咋(はくい)市の気多大社では「気多の鵜祭(うまつり)」が行なわれる。鵜捕部が生きた海鵜を放ち、飛ぶ方向などで吉凶を占う神事で、一説には平安時代からつづいていると言われている。

 この海鵜を鵜浦町に住む鵜捕部が捕り、気多大社まで2泊3日をかけて運ぶが、これを「鵜様道中(うさまどうちゅう)」と呼ぶ。能登半島の東と西を結ぶこのような神事がなぜ行なわれてきたのか。そして鵜を捕ることを許されている家や、鵜様道中の時に宿泊する家がなぜ厳格に定められているのか。

 私は鵜様道中のことを知った時から、そのことが気にかかっていた。この道中は七尾湾に入った船から降ろされた積荷が、羽咋の港まで運ばれた経路とも重なる。それゆえ気多大社が商業ルートの支配権を確立するために、特定の家との関係を深めたのではないかとも推測していたのである。

「神事ですから、歴史的な由来が分っている訳ではありません。しかし海鵜は他の海岸でも捕れるのに、なぜここで捕れたものでなければならないのか。その理由は小口瀬戸の支配権に関わっていたのではないかという説はあります」

2022.11.02(水)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」11月号