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観音崎灯台の前に灯台の役割を果たしていた鹿渡島の観音堂
観音埼灯台ができる前は、鹿渡島にある観音堂が同じような役割をはたしていた。鹿渡(かど)島は岬の先端から50メートルくらいの所に浮かぶ、周囲300メートルほどの小島で、頭上に輝く玉をかかげた鹿が渡ったという伝承からこの名がつけられた。
今は浅瀬をコンクリート舗装して渡れるようにしてあるが、観音堂には今でも昼夜明りを灯しているし、和田さんたちが住む集落の6軒(昔は7軒)が毎日交代で朝晩鐘を鳴らしてお参りをしているという。
寺の名は龍燈山龍華樹院観音自在寺(りゅうとうざんりゅうかじゅいんかんのんじざいじ)といったが、今は鹿渡島観音寺と呼ばれている。本堂の軒先に下げてある半鐘くらいの大きさの鐘が、和田さんたちが毎日鳴らしているもので、常夜燈の替わりに灯しているのは裸電球だった。この観音堂から観音埼灯台への移り替わりは、海の標識の歴史を端的に示している。
日本人が船を使うようになった頃から、港の位置を示すための設備が必要になった。初めはかがり火だったろうが、それが常夜燈や灯明台になり、明治期になって欧米の仕様に合わせて灯台が作られるようになった。
鹿渡島の観音堂がこうした役割を荷っていたことは「龍燈山」という山号が示しているし、この堂に関係していた人々がどれほど豊かだったかは、本堂に安置された三仏が示している。
観音堂が開かれるのは元旦と3月15日の涅槃会の時だけだが、今回は特別に拝観させていただいた。本尊の千手観音立像は一木造りの精巧なもので、阿弥陀如来像は聖徳太子16歳の作と伝えられている。
江戸期の北前船が象徴しているように、廻船業は莫大な富をもたらした。その安全をはかるためなら、豪商たちは大金を出して観音堂を整備することを厭わなかったのである
当然のことだが、観音堂は宗教施設でもある。小口瀬戸の難所では、嵐の時などに多くの海難事故が起こった。船が沈没して溺死したり、冬場に海に投げ出されて凍死するような例も多かったと思われる。
人々はそうした犠牲者を悼み、御仏の力で成仏できるようにとの願いを込めて、朝夕鐘を叩き本堂に明りを灯しつづけたのではないだろうか。
「観音堂にお参りすると、今でも不思議なご利益があります。私の知り合いにも良縁に恵まれたり子宝を授かった人がいます」
和田さんの言葉が真実味をおびているのは、代々観音堂をお守りしてこられた一族のご出身だからだろう。現金な私は、改めて観音さまにお参りをして末永いご加護を祈ったのだった。
能登観音崎灯台
所在地 石川県七尾市鵜浦町
アクセス 国道160号を北上。岬方面へ県道246号進むと舗装路の終点手前に観音崎会館がありその駐車場の県道を挟んで反対側に灯台入り口があり。
灯台の高さ 11.8m
灯りの高さ※ 32m
初点灯 大正3年
https://romance-toudai.uminohi.jp/toudai/notokannon.php
※灯りの高さとは、平均海面から灯りまでの高さ。
海と灯台プロジェクト
「灯台」を中心に地域の海と記憶を掘り起こし、地域と地域、日本と世界をつなぎ、これまでにはない異分野・異業種との連携も含めて、新しい海洋体験を創造していく事業で、「日本財団 海と日本プロジェクト」の一環として実施しています。
https://toudai.uminohi.jp/
海と灯台学
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文藝春秋
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灯台は日本と世界の接点にあり、江戸末期以来の日本の近代化を見守り続けてきた象徴的な存在。その技術、歴史、そして人との関わりはまさに文化遺産です。四方を海に囲まれた日本ならではの灯台の歴史と文化を、これまでも様々な海洋課題に取り組んできた日本財団が編纂しました。美しい写真とともに、日本近代の浪漫を楽しんでください。
【出典】
オール讀物 2022年 11 月号(「小説家」になる!&秋の「読切」ミステリー祭)
定価 1,000円(税込)
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その土地の物語を読み解く
“灯台巡り”の旅へ
2022.11.02(水)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」11月号
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