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 現在、日本に約3,300基ある灯台。船の安全を守るための航路標識としての役割を果たすのみならず、明治以降の日本の近代化を見守り続けてきた象徴的な存在でもありました。

 建築技術、歴史、そして人との関わりはまさに文化遺産と言えるもの。灯台が今なお美しく残る場所には、その土地ならではの歴史と文化が息づいています。

 そんな知的発見に満ちた灯台をめぐる旅にみなさんをご招待。

 第1回となる今回は直木賞作家・安部龍太郎さんが石川県七尾市・能登観音崎灯台を訪れました。能登半島における日本海海運において重要な役割を果たしてきた灯台の魅力と歴史を紐解きます。


灯台は世界に向けて開いた窓

 灯台と言えば思い出す光景がある。

 学生時代にラグビー部の仲間と海辺の友人の家に遊びに行った。夕方に酒宴に興じた後、蒸し暑いので泳ぎに行こうということになった。

 あいにくの曇り空で空も海も闇に包まれている。友人たちは若さに任せて沖に向かって泳ぎ始めたが、山育ちの私は巨大な闇に気後(きおく)れして、足が届く所より沖には出ることができなかった。

 心細さに身も縮む思いであたりを見渡すと、はるか遠くの岬の先端に灯台があり、規則正しい点滅をくり返している。そのまたたきが自然に立ち向かう人間の意志を象徴しているようで、胸まで海につかって飽きずにながめていた。

 その時頭に浮かんだのは、「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉だった。伝教大師最澄が比叡山で学ぶ僧たちのために書いた『山家学生式』の中に次の言葉がある。

〈国宝とは何物ぞ(中略) 一隅を照らす これすなわち国宝なりと〉

 光の点滅がそんな発想を呼び起こしたのだが、灯台は一隅を照らしているだけではない。経緯度を示す位置情報として全世界に公開され、諸外国から来航する船の安全を守っているのだから、世界に向けて開いた窓なのだ。

 あれから50年ちかい歳月をへて、灯台を巡る仕事をいただいた。全国に3,300ほどあるという灯台の中から、最初の訪問地に選んだのは能登半島だった。

能登半島の歴史における役割にも新たな光をあてる

 2022年9月7日(水)の早朝、台風11号が通過した余波が残る不穏な天候の中、和倉温泉の宿所を出て鵜浦(うのうら)町の観音埼灯台に向かった。

 七尾湾の東に突き出した崎山半島の先端に設置された灯台で、能登島との間の小口瀬戸を航行する船の安全を守っている。

 また日本海から富山湾に入る船が、能登半島と周辺の浅瀬を認識するための目印でもある。灯台は海を照らすと同時に、海からの眼を責任をもって受け止めているのである。

 大正2年(1913)に建てられ、翌年1月に点灯を始めた観音埼灯台は、初め「七尾湾口灯台」と呼ばれていた。小口瀬戸が七尾湾への出入口になっているからで、この航路ははるか昔から日本海海運と七尾を結ぶ重要な役割をはたしてきた。

 我々が乗った車は、崎山半島をはすかいに横切って観音崎に向かっていく。低木の林の中を右に左に曲がりながらのドライブだが、高低差はそれほどないので安心してまわりの景色をながめていることができた。

 最初に能登を訪れることにしたのは土地勘があったからである。30年ちかく前から取材に来たり友人の家に遊びに行ったりしていたが、やがて戦国時代に活躍した七尾出身の絵師長谷川等伯の小説を書こうと思い立ち、いっそう足繁く訪れるようになった。

 そうした知見や人脈があるし、日本海海運や諸外国との交易において能登半島がはたしてきた役割の大きさも承知している。灯台をめぐることでそうした面に新たな光を当てることができればと思ったのだった。

2022.11.02(水)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」11月号