
『わるい食べもの』シリーズの食エッセイでもおなじみ、食いしん坊作家の千早茜さんが、子供の頃から特別に思うチョコレート。今回は音楽と芸術の都ウィーンに旅をする中で、心を奪われたお菓子について語ります。
二度目のウィーン旅行をした。ウィーンといえばザッハトルテを思い浮かべる人は少なくないはずだ。チョコレートのスポンジをチョコレート入りのフォンダンで覆った「チョコレートケーキの王様」と称されるケーキだ。チョコ好きな私が愛さないわけがない。ちょっとシャリッとした上掛けチョコ、しっとりとした重めのスポンジ、ダブルチョコの濃厚さを引き締める杏ジャムの酸味、シンプルで素晴らしき完成度のチョコレート菓子だと食べるたびに感服する。日本でも『DEMEL』や『Cafe Landtmann』や『ツッカベッカライ カヤヌマ』で本場の味を楽しむことができる。
そのザッハトルテを生みだしたのは創業1869年の『Hotel Sacher』だ。オンラインで買うこともできるが、できるなら元祖ザッハトルテともいうべきザッハトルテはウィーンで食べたい。店はいつも人で溢れ、深紅のカフェもレストランも予約必須だ。初めてウィーンで見た時、添えられた生クリームの量にたじろいだ。決して小さくないザッハトルテの背を越すくらい盛りあがっていた。恐る恐るフォークの先に生クリームをつけ、舐めてみた。生クリームが甘くない! 甘くない生クリームは濃厚なザッハトルテにすごく合った。苦手な生クリームがするすると入り、瞬く間に皿はきれいになった。
二回目のウィーンはホテルの取材を兼ねていたので『Hotel Sacher』に泊まることができた。まず部屋に入ると、赤いリボンをかけて包装されたミニサイズのザッハトルテがベッドサイドに鎮座していた。おまけに、朝食のブッフェにもザッハトルテがホールで置かれている。食べ放題。「お迎えザッハ! 朝食ザッハ!」と浮かれて食べまくった。
しかし、せっかくのウィーン、『Hotel Sacher』のザッハトルテだけを食べるわけにはいかない。ウィーンには無数のコンディトライと呼ばれるカフェとパティスリーが一緒になったような店があり、そのほとんどにザッハトルテはあるのだ。チョコレート専門店にもある。ザッハトルテ研究をしなくてはと食べ歩いていたら、前回は見かけなかったチョコレート菓子を見つけた。
つんと先の尖った栗の形をしたチョコレートがショーケースに立っていた。「Maroni Herz(マローニハーツ)」と書かれている。直訳すると「栗の心臓」である。調べると、秋から冬の栗の季節だけでる菓子だそうだ。
栗か、と思う。この連載の第三回でチョコフォンデュやチョコレートファウンテンを例に挙げ、チョコレートは「大抵の菓子や果物に合う」と書いたが、実は栗だけはどうだろうという気持ちがある。合う合わないの問題というよりは、栗が好きすぎるせいかもしれない。栗の、もくっとした香りがカカオの強さで消えてしまう気がして、栗は単体、もしくは和菓子で食べる傾向にあった。ただ、ウィーンに来てからは路上で売っている焼き栗の虜になっていた。焼き栗は甘さ控えめで素朴な味がして、いくらでも食べられた。
試しに「マローニハーツ」を一つ求めると、店員のおばあさんが「これはね、一日二日で食べなくてはいけないよ」と言った。「とてもフレッシュだから」
「フレッシュ」と繰り返し、ホテルに持ち帰って入浴後に食べてみた。ほろっと抵抗なく齧り取れる。チョコレートの層が薄いのだ。中は栗のペーストだった。生クリームは入っているだろうが淡く、自然な栗の香りがした。「フレッシュ」の意味がわかった。まるで裏漉ししたてのような栗だった。フレッシュな栗は生ナッツ特有の青くささを残していて、チョコレートに負けていなかった。「美味しい!」と声がでた。
滞在中は見かけるたびに「マローニハーツ」を食べた。おにぎりかと思うような大きなものから、吹けば倒れそうに薄いもの、自立できず饅頭のようにごろんと横たわっているもの、と様々だったが、どれも一目で栗だとわかる形状をしていた。中身も刻んだ栗が混ざっていたり、洋酒で香りをつけてあったり、ムースっぽかったりと店によって違った。ほとんどはダークチョコレートがかかっていたが、オーストリア王室御用達の老舗カフェ『Gerstner』にはミルクとダークの二種類があり、私より栗好きの夫はここのミルクを気に入っていた。私はチョコレート専門店『Leschanz』のバランスが一番好きだった。
でも、どれも美味しい。まだ、まだ、探したい。石畳の美しい街を、日持ちのしない栗の心臓を求めて歩く。そうするうちに帰国日になってしまった。なにせウィーンのカフェ文化はユネスコの無形文化遺産に登録されており、市内だけで千軒近くあるという。とても網羅し尽くせない。
数枚の栗の心臓を手荷物に入れ、飛行機に乗った。日本で食べてもやはりとても美味しかったが、数日でなくなった。自分の心臓が失われたかのようにつらい。

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。立命館大学文学部卒業。2008年「魚」(受賞後「魚神」と改題)で第21回小説すばる新人賞受賞しデビュー。09年『魚神』で第37回泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で第6回渡辺淳一文学賞、23年『しろがねの葉』で第168回直木賞を受賞。近著に、西淑さんの挿絵も美しい短編集『眠れない夜のために』などがある。
Column
あまくて、にがい、ばくばく
デビュー以来数々の文学賞を受賞してきた千早茜さん。繊細かつ詩情豊かな文章で読者を魅了する千早さんのもう一つの魅力は、嗅覚鋭く美味しいものを感知する食への姿勢。そんな千早さんが「特別」と思うチョコレートにまつわるエッセイが今回からスタートします。西淑さんのイラストとともに、さまざまな顔をもつチョコレートを堪能してください。
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- 文=千早茜
イラスト=西淑 - category










