現在、日本に約3,300基ある灯台。船の安全を守るための航路標識としての役割を果たすのみならず、明治以降の日本の近代化を見守り続けてきた象徴的な存在でもありました。

 建築技術、歴史、そして人との関わりはまさに文化遺産と言えるもの。灯台が今なお美しく残る場所には、その土地ならではの歴史と文化が息づいています。

 そんな知的発見に満ちた灯台を巡る旅、今回は2017年に『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞を受賞した恩田陸さんが福岡県の部埼灯台と関門海峡海上交通センターを訪れました。

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海上交通の要衝を訪ねて

 門司(もじ)には何度か来たことがあるが、しっとりとした雰囲気のある、美しい町だ。レトロな建物も多く、なんといっても門司港駅の駅舎が素晴らしい。

 今回は、フェリーで門司港に着いたので、そのまま港で待ち合わせていた観光タクシーに乗り込み、部埼(へさき)灯台へと向かう。

 本日も快晴。海が眩しくて綺麗。そして、やはりとても暑い。

 海辺の駐車場で、「美しい部埼灯台を守る会」の永木三茂さん、門司海上保安部交通課の木下孝さんと合流し、灯台へと向かう。ほとんど崖っぷちの通路をひたすら登り(斜面に咲き乱れる花々に、いろいろな種類の蝶が舞っていたのに感激した。こんなにたくさんのアゲハチョウを見たのは、本当に久しぶりだ)、例によって吹きさらしの部埼灯台へ。

 真っ白な灯台が青空に映えて美しい。パッと見は、二段のホールケーキ、というビジュアル。

 そばに行ってみると、二段に見えた下のケーキ部分は半円形だった。

 目を引くのは、灯台の背後に立つ、巨大な電光表示盤だ。アルファベットに数字、矢印が刻々と映し出されている。

 これは、潮流信号所というもので、関門海峡のような潮流の変化が激しい難所に建てられているそうで、初めて見た。潮の流れがどちら向きに、どのくらいの速さで流れているのか、流れが今後速くなるのか遅くなるのか、を表示しているという。

 部埼灯台の由来はなかなかに渋い。灯台自体、出来たのは明治時代(一八七二年)だが、その前史として、一八三六年(天保七年)に、大分の竹田津港から海路で高野山を目指していた僧・清虚(せいきよ)が、船の中で乗客が皆熱心に念仏を唱えるのを見て、事故が絶えない海の難所だからという話を聞き、高野山行きをやめて部埼に庵を結び、毎晩薪を焚いて、亡くなるまで灯台の代わりを務めた、というのである。なんという奇特なお坊さんであろうか。托鉢で集めた浄財は、一日一食分のみを除いてすべて薪代に当てた、というのだからますます奇特である。

 三十キロ先まで光が届くというフランス製のレンズは独特の形で、まるでシャンデリアかオブジェのように美しく、百三十年も現役で海を照らし続けている。

 レトロな灯台内は、まさにタイムスリップ感でいっぱい。まるで映画の登場人物になったかのような心地に。

 永木さんが子供の頃は、まだ灯台守の方々が住んでいたそうで、人がいなくなってから長らく寂れていたのを有志で整備し、先ほど蝶が乱舞していた花畑も、皆さんで植えたもの。今では、灯台も、かつて灯台守が住んでいた官舎も重要文化財になっている。

 木下さんに潮流信号所の話を伺う。

 関門海峡は潮流の変化が激しく、何箇所も潮流信号所が設けられている。

 昔は電球の交換がたいへんだったらしいが、今はLED等に置き換えられ、「持ち」がよくなっているそうだ。

 潮流信号所を何かのトリックに使えないだろうか、と一緒に考える。アルファベットを特定の人だけに誤認させるとか、時間を勘違いさせるとかすれば――などと、剣呑なことを考えてしまうのは、やはり小説家の性であろうか。

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