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 現在、日本に約3,300基ある灯台。船の安全を守るための航路標識としての役割を果たすのみならず、明治以降の日本の近代化を見守り続けてきた象徴的な存在でもありました。

 建築技術、歴史、そして人との関わりはまさに文化遺産と言えるもの。灯台が今なお美しく残る場所には、その土地ならではの歴史と文化が息づいています。

 そんな知的発見に満ちた灯台をめぐる旅、今回は直木賞作家・安部龍太郎さんが石川県珠州市の禄剛埼灯台を訪れました。後篇ではさらに禄剛埼灯台の歴史を紐解きます。

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安全を照らす禄剛埼灯台

 灯台といえば、工場の煙突のように海辺に突き立っている姿を思い浮かべる方が多いのではないだろうか。

 しかしこれは海面からの高さを確保し、光を遠くまで届かせるために用いられた構造で、海辺の高台に作られた場合そうした必要はない。

 能登半島の先端に設置された禄剛埼灯台は高さ34メートルちかい高台にあり、灯台本体は12メートルで充分だった。

 そこでずんぐりとした円筒形の灯塔を、半円形の平屋で支える形にした。灯塔がずんぐりしているのは大型のフレネル式レンズを収容するためで、要塞のような半円形の平屋は突風にさらされても耐えられる構造にするためである。

 この基本設計はスコットランドのスティーブンソン兄弟社によるもので、お雇い外国人として明治政府に招かれたリチャード・ヘンリー・ブラントン(1841~1901)が日本に伝えた。

 ブラントンは28基の灯台の設計や建設に当たったが、禄剛埼灯台は彼らの力を借りることなく日本の技術者たちが初めて自力で作り上げたものだった(諸説あり)。

「この平屋を形作っている石は、下の岩場から切り出して運び上げたものです」

 あのあたりからだと、河崎倫代さんが崖下の海岸を指差された。

 水面下に透けて見える所に、石畳のように連なる岩礁がある。石を切り出すには好都合だが、この高さを運び上げるにはさぞ難渋したことだろう。

 このあたりは江戸時代から北前船が行き交う重要な航路だが、風が強く岩礁が多い「魔の海域」だった。そこで加賀藩は「諸廻船御助」のために近くの山伏山(標高172メートル)に常灯(灯明台)を設置していた。

「それが明治になって洋式灯台に替えられたのです。常灯と灯台では光が届く距離がちがいますから」

 河崎さんは灯台設置の理由を記した公文書の写しまで用意して下さっていた。明治十四年(1881)5月6日に工部省から左大臣あてに上申されたもので、おおむね次のように記されている。

「この地は従来北国筋より西南地方へ航海する船舶が目印とするべき位置にありますが、同所の近海は暗礁が多く、しかも北方からの潮の流れが激烈であるのみならず、風雨などの夜はあたりは真っ暗で、ひとつも目当てにできるものがありません」

 そのために航路を誤って沈没する船が多いので、灯台を設置して安全をはかってほしいというのである。この願いは迅速に処理され、5カ月後の10月20日には着工の運びとなった。

「私の曽祖父の小坂長之助は、明治32年11月に灯台看守助手となり、この灯台で勤務するようになりました。狼煙町で大工仕事をしていましたが、明治30年に長男が生まれたために、より安定した職業につきたかったのではないでしょうか」

 灯台の横には洋式の官舎があり、常時3人が勤務していたという。

2022.12.09(金)
文=安部龍太郎
撮影=橋本 篤
出典=「オール讀物」12月号