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世界標準に踏み出す

 私はひととおり外観をたしかめ、それから木製の扉をあけて内部に入った。

 急角度の螺旋階段をのぼって灯籠(とうろう)をめざす。灯籠とは灯台のてっぺん、発光装置の置いてある小部屋であるが、そのなかへ這い込んで――この「這い込む」は実情をかなり正確に表現したものと思ってほしい――立ちあがり、ひざの埃をぽんぽん払うと、ガラスごしに青い海が一望できた。

 ここでなければ見られない絶景である。手の届きそうなほど近い正面の対岸にコンビナートがあって、煙突から白いけむりを立ちのぼらせているのは、おそらく香川の番(ばん)の州(す)臨海工業団地だろう。

 右手には南京玉すだれを横にのばしたような銀色の瀬戸大橋が見え、その向こうに、これまた見るからに太い高いクレーンが林立している。

「あれは何ですか」

 と聞いたら、間賀さんが、

「今治造船の工場です」

 愛媛県である。すなわちこの灯台は、視覚的には、瀬戸内のなかの相当な広範囲を支配しているといえるわけで、それだけに眼下の海を通過する船の多さが私にはいっそう印象深かった。

 そう、とにかく船が多いのだ。船種もじつにさまざまで、コンテナを満載した巨大船あり、中くらいの大きさの漁船あり。

 小さなレジャーボートらしきものに至っては、数えるのも面倒なほどである。私にはみんな自由に走っているように見えるので、よくまあぶつからないものだと思っていると、間賀さんが、「基本的には右側通行です」と、こっちの胸中を察したのだろう、いろいろなルールを教えてくれた。

 その上で、「ときどき違反者もありますので、取り締まりや啓発活動をやるのも我々の仕事です」

 その言いかたは、ほとんど陸上における警察官のようだった。なるほど交通課の名は伊達ではないのである。私は相槌を打ちながら、ふと、海の、

(国道一号線)

 そんなことばを思い出した。

 ふつつかながら私の用語である。おととし出した『東京の謎(ミステリー)』(文春新書)のなかで瀬戸内をそう喩えて、この海域の、日本史における物流経路としての重要性を示したのだ。

 たとえば古代、大和国などの豪族は巨大な古墳を築造したが、そこに埋めた石棺にはしばしば北九州産の石材をもちいた。またたとえば平安末期の平清盛はこの海域へはじめて外国(宋)の船を引き込むことで破格の経済力を手に入れた。

 江戸時代には日本中の物資が「天下の台所」大坂(大阪)めがけてベルトコンベアに乗ったように搬送された。もしも日本史の神様がいるなら、彼ないし彼女はまさしくこの海を手にした者にだけほほえみを向けたことは事実なので、しかしそれにもかかわらず、くりかえすが、瀬戸内は、日本最初の灯台の建築劇の舞台にはならなかった。太平洋の下風に立ったのである。

2023.06.03(土)
文=門井慶喜
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2023年6月号