田中新一(一八九三年[明治二六年]― 一九七六年[昭和五一年])は、太平洋戦争開戦前後、参謀本部作戦部長を務め、当時の日本において重要な役割を果たした。彼は、開戦を最も強硬に主張し、それを推進し、陸軍を動かしていった人物である。
同時期に作戦課員だった高山信武は、田中について、「抜群な説得力」「指導力」と「比類なき迫力」で参謀本部内外に強い影響力をもっていたと回想している(松下芳男編『田中作戦部長の証言』)。また、高山は、田中作戦部長を中心に、部下の服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦課戦力班長の三人が、「開戦の強力な主唱者」だったとも述べている(同右)。
だが、田中には有力な対抗者がいた。一貫して日米開戦に慎重な姿勢をとっていた武藤章陸軍省軍務局長である。軍務局は軍政、予算などを担当する部局で、国防政策にも大きく関与していた。田中と武藤の二人は、しばしば陸軍の戦略をめぐって激しく対立した。
陸軍中枢にあって、対米戦回避を模索した武藤章については、前著『武藤章』(文春新書)に書いたが、現在の我々からすると、日米開戦を積極的に唱えた田中たちの論理、行動の方が、より理解するのが難しい、大きな「謎」であるように思われる。
さらにいえば、日米開戦の経緯については、これまで多くの研究がなされている。その多くは、当然のことではあろうが、「なぜアメリカとの戦争を避けることができなかったのか」という問題意識を共有している。田中のように、日米戦争を望み主導した者の視点から、日米開戦までの流れをみたものは多くない。そこにも本書の特徴のひとつがあると考えている。
対米最強硬論者として
開戦直前、日米交渉をめぐって田中は武藤と衝突した。
その時の様子を石井秋穂(当時軍務局高級課員)は次のように記している。
「けたたましいベルによって武藤から呼びつけられた私は、急いで[軍務]局長室に行った。中から鋭い大声が聞こえる。ドアーを開けると武藤と田中とが立ったまま睨み合っている。武藤は眼鏡をかけていない。さては武藤が止め役に私を呼んだんだなと直観した。田中はさすがに間が悪いのだろう。……顔を真っ赤に膨らましてつぶやきながら出て行った。」(「石井秋穂の手記」上法快男編『軍務局長武藤章回想録』)
2025.01.29(水)