その前に、本書では、太平洋戦争開戦期を中心に、彼の思想と行動を明らかにしていきたい。

作戦立案を担う

 まず、田中の略歴を簡単に記しておこう。

 田中は、一八九三年(明治二六年)三月、北海道釧路に生まれた。田中家は、代々越後松村藩に使える武家であったが、祖父の代に北海道に渡り、父寅五郎は釧路に定住して農業を営み、新一が生まれた。

 一九〇六年(明治三九年)、仙台陸軍地方幼年学校に入学する。田中の軍人志望は、父と親交のあった北海道江部乙の屯田兵大岡大尉の影響によるものだった。

 一九一三年(大正二年)、陸軍士官学校を卒業。同期に冨永恭次、武藤章らがいた。卒業後、弘前歩兵第五二連隊所属となる。その後、一九二三年(大正一二年)一一月、陸軍大学校を卒業。原隊復帰後、翌年一二月から教育総監部に勤務することとなる。一九二八年(昭和三年)から一九三一年(昭和六年)まで約三年間、ソ連、ポーランドに駐在する。ソ連のグルジアやアゼルバイジャン周辺の情報収集が主な任務であった。

 帰国後、教育総監部に復帰するが、翌年(一九三二年)関東軍参謀として満州に渡る。そこで作戦参謀として石原莞爾の下につき、強い影響を受ける。石原は、陸軍大学在籍中の教官であり、満州への赴任は彼の推薦によるものだった。

 一九三四年(昭和九年)、欧州視察のため、ドイツ、ポーランドに派遣される。この時、陸士同期で統制派の冨永恭次と同行することとなり、これを契機に統制派の影響下に入る。統制派については、後にふれたい。帰国後、宇都宮第五九連隊勤務をへて、一九三六年(昭和一一年)、陸軍省兵務局兵務課長となる。抜擢人事だが、その経緯は明らかでない。

 翌年(一九三七年)、陸軍省軍務局軍事課長に任命される。この軍事課長期間中に日中戦争が始まり、陸軍省の政策決定において、重要な役割を果たす。第一章で詳しく述べるが、この時、田中は武藤とともに、上司である石原莞爾とも対立する。

2025.01.29(水)