田中はこう考えていた。

 日本は今、「三国枢軸」の維持か、「対米英親善」への国策転換かという国家の命運のかかる「根本問題」に直面している。もし、独伊との枢軸を脱して米英と親善関係を結べば、おそらく日中和平は成立し、その後、独伊が屈服するか、そうでなければ世界大持久戦争となる可能性がある。

 だが、いずれにせよ事態が決着すれば、日本はあらためて米英ソ中による挟撃にあう危険がある。また、不介入の立場を貫く中立政策も、空想といわざるをえない。それゆえ、現時点では枢軸陣営において国策を実行するほかはない、と。


「日本が若し枢軸を脱して英米と親善関係を結ぶことになれば、おそらくは日支和平は成立し、遂に独伊の屈服もしくは世界大持久戦争の展開を見るに至るべきも、その結果として日本が改めて米英ソ支の挟撃に会う危険は決して杞憂とは言えず。

 予[田中]は如何にしても枢軸より米英陣営に移る危険を冒すことに賛成するを得ず。又日本の中立政策への還元も空想と謂わざるを得ない。結局枢軸陣営において国策を遂行するの外なし。」(田中「大東亜戦争への道程」第五巻)

 この時点であらためて独伊提携か米英提携かを問いなおしたうえで、自らの情勢判断によって独伊提携の維持を選択し、英米に敵対する方向、ひいては対米英戦の方向へと国策を引きずっていったのである。

 これが、田中が太平洋戦争への道を主導した論理だった。

 実際には、日本はアメリカの対独参戦を待たずに開戦することとなるが、それはアメリカの対日全面禁輸という、日本の指導部にとって思いがけない事態などが起き、武藤、田中ら陸軍の指導者たちも大きく揺れ動いた。冒頭に紹介した田中と武藤の衝突も、一九四一年(昭和一六年)一〇月一日のことである。

 後に詳しく述べるように、独ソ戦は第二次世界大戦の様相を大きく変え、日本、ことに陸軍の対外戦略に大きな影響を与えた。その独ソ戦前夜、田中新一が、参謀本部作戦部長として考えていた戦略はこのようなものだった。ここから八ヶ月足らずで日米開戦となる。

2025.01.29(水)