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「ほら! 喋ってないで早く行く!」

「あの、女将さんよかったら離れの配膳、アタシやりますよ!」

 その日、Aさんは意を決して夕飯時の混雑がひと段落したタイミングで女将さんに声をかけました。

 ちょっと足踏み入れすぎか……? ――女将さんの返答を待つ数秒、Aさんは好奇心を抑えられなかった自分を悔やんだそうです。

「あら、知っていたの? う~ん、じゃあ1回やってもらおうかしら」

 その返答は意外にもあっけらかんとしたものでした。

「じゃあ、この御膳を離れに運ぶだけでいいからね。『失礼いたします』とお声がけして、入ったら『ここに置いておきますので、何かあったらお申し付けください』とお伝えして出てくればいいだけ。やり方書いたメモもここに入れておきますから、わからなくなったらお客様の見えないところで確認して。最初は私も離れの外で見ています」

「あ、はい。ちなみにどんなお客さんが――」

「ほら! 喋ってないで早く行く!」

 トントン拍子に話は進み、気がつけばAさんは月明かりの中、離れに向かって砂利道を歩かされていました。

 御膳の内容はいたって普通。なにか奇妙なものを出しているわけではありません。

 やっぱり長く滞在されている特別なお客様でもいるのだろう――先ほどは女将さんの手際の良さに気圧されて聞けなかったAさんですが、ぼんやりと結論の輪郭が見え始めたことで沸き起こっていた好奇心の火も静まってきていました。

 ですが、そんな安堵が続いたのも離れの戸をくぐるまででした。

2025.08.09(土)
文=むくろ幽介