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夜になると女将が配膳する離れ

 それから連日、午前中に大学の講義を済ませるとバイト先に長距離移動をする日々を過ごしていったAさん。

 最初のうちこそ移動に疲れたそうですが、作業自体は皿洗い含めて客前に出ない裏方作業が中心だったので、すぐに慣れていったそうです。

 ただ、働くうちに強く感じるようになっていったのが、ここの旅館の人たちが“無理して田舎の良い人を演じているのではないか”という漠然とした感覚でした。

 明確にそう思わせる出来事があったわけではなかったのですが、作ったような笑顔の隙間に影が差す瞬間がよくあり、何かミスでもしたらえらく怒られそうかも……と気を引き締めたそうです。

 2週間ほど経ったある日のこと。

 佳境となる夕飯の給仕も終わった夜8時半頃。Aさんが外廊下を歩いてお手洗いから戻っていると、女将さんが御膳を持って庭向こうにある離れに歩いていくのを目にしました。

 まだお客さんがいたのかな……と思いましたが、その離れには明かりが点いておらず、女将さん自身も明かりを身に付けずにスルスルと手慣れた様子で運んでいるのが妙に引っかかったのでした。

 その日以来、Aさんは仕事の合間にお手洗いに行くフリをして女将さんが何をしているのか観察してみることにしました。そこでわかったのは、女将さんは必ず20時30分から35分の間に配膳にしているということでした。

「失礼いたします」

 女将さんが暗い離れの中にそう深々とお辞儀をして入っていくのにも、Aさんは違和感を覚えたそうです。

2025.08.09(土)
文=むくろ幽介