結婚を間近に控えたある夜、酔った勢いで連絡したのは、10年前に決別した「パパ」だった。沈黙していたスマホから懐かしい声が聞こえてきた時、刺激に満ちた自由な旅はひとつの終着点を迎えてーー魔法のない時代に生きる「魔女」を描いたエッセイ、最終回です。(前篇を読む)
2カ月ほど前、お世話になっている取引先の人たちと飲み会をしていた。私はおでんを食べ、レモンサワーを飲みながら、そんな話題はひとつも出ていないのに、突然「この会が終わったらパパに電話しよう」と思い立った。自分でもなぜ急にそう思ったのかは解らない。でも、その瞬間に私のなかでなにかのスイッチが入ったような、あるいは切れたようなそんな感覚がしたのだった。おでんを平らげ、2軒目に流れ、赤坂見附でベロベロに酔っぱらった私は、弟に「パパの連絡先を送れ」とメッセージを送った。弟はなにも聞かず、「ほいよ」とだけ言ってパパの連絡先を私によこした。終電の時間を頭の片隅に入れて、酔っ払いで騒々しい道端でえいやと発信ボタンを押す。2回ほどコールが鳴って、怖くなって終了ボタンを押した。やっぱり怖い。あんな喧嘩をして10年ぶりに電話を掛けて、開口一番罵倒されたら、自分が立ち直れなくなるような気がした。私には憎い人がいない。人にも世間にも向ける怒りがない。なにがあっても、一晩経ったらヘラヘラできる。だから、どんなに関係がこじれても、最後はうやむやにして仲直りしたい。「なんで喧嘩してたんだっけ?」と数年後に笑いながら話がしたい。でも、謝りたくはない。だって私悪くないもん。謝りたくないし、謝られたくもない。私はただ元通りになりたいだけ。ただなかったことにしたいだけである。今電話を掛けたとして、パパがどうリアクションをするか全く想像がつかなかった。謝れと怒鳴られるかもしれないし、泣く泣く謝ってくるかもしれないし、そのどちらも嫌だった。自分でそれを確かめる勇気まではなく、私はパパからの連絡を待つことにした。もし私と話す気があるなら不在着信を見て連絡が来るかもしれないし、来なければ膠着状態のまま、喧嘩は11年目に突入する。終電の時間が迫る。フランス語で「久しぶり! 私結婚する!」とメッセージを打ってミュートをかけ、トーク画面を非表示にしてからスマホをポケットにしまった。
酔った自分がした軽率な行動も、次の日になってしまえば、夢か現実かほとんど区別がつかない。スマホにパパからの連絡はない。あー、やっぱり私許されてないんだ。10年も経っているのになんて強情なんだろう。死に際に後悔しても知らないからな。ちょっとふてくされて、鮮明な記憶が戻る前に忘れることにした。それから2日、なんの連絡もなかった。そして3日目の夜、すっかり忘れてスマホを弄っていたら、突然着信がきた。画面にはパパの名前。びっくりしてスマホをテーブルに投げ飛ばした。実家にいたので、それからとっさに投げたスマホを拾い、目の前の母に押し付けた。まるで爆発寸前の手りゅう弾のような扱いである。母が電話に出て、パパとなにか話している。怒っているかどうかが気になって、スマホに耳を近づける。かすかに低い声が聞こえるだけでよくわからない。母はしばらく電話の声に相槌を打ち、それからスマホの向こうのパパに「話す?」と聞いた。スマホが私の方に差し出される。おそるおそる手に取って、耳に当てる。もし怒鳴られても泣くもんかと覚悟をして、できるだけ明るい声で、気楽そうに「もしもーし」と声を掛けた。
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 - 文=伊藤亜和 
イラスト=丹野杏香 - category
 
              