結婚を間近に控えたある夜、酔った勢いで連絡したのは、10年前に決別した「パパ」だった。沈黙していたスマホから懐かしい声が聞こえてきた時、刺激に満ちた自由な旅はひとつの終着点を迎えてーー魔法のない時代に生きる「魔女」を描いたエッセイ、最終回です。後篇を読む)

 仕事の帰り。最寄駅から自宅まで、はじめて電動キックボードに乗ってみた。いつも街中で颯爽と走る人たちを羨ましく眺めてはいたものの、婚約者から「危ないよ」とやんわり利用を止められていた。

 これまで、彼が私になにかを強制したことはない。バニーガールのアルバイトをしていると告白したときも、タバコを吸っていると白状したときも「心配だな」とか「身体によくないよ」とか言っただけで、決して「やめてほしい」とは言わなかった。結果的に自由にさせてもらってはいるものの、私は意外と人の顔色をうかがうタチだ。すぐにやめるまではしないけれど、以降その話題は控える程度に配慮をして、少しだけ後ろめたい気持ちで過ごす。そうやって、私はほんの少しだけ自由でなくなる。彼のせいではなく、彼の抱える心配ごとを減らしたくて、私は重力に従い、少しだけ自由を差し出す。

 私たちはまもなくふたりで暮らすことになる。だからそれまでのあいだ、変なことで好感度を下げたくはない。結婚が間近に迫ってもなお、私は自分が本当に人並みの幸せ、というか、私からすれば、人並み以上の幸せと言える未来を得られるのだろうかと疑っていた。私はちいさいころからずっと結婚がしたかった。こんなにたくさんの人がいるなかで、たったひとり自分を選んでもらうことが、私の昔からの夢だった。たぶん過剰に憧れすぎて、結婚というのは私のなかで“滅多に起こり得ない事態”という扱いになっているのかもしれない。なにかがおかしい。こんなに上手いこと、私にはもったいないような人と結婚できるはずがない。籍を入れた途端、彼が豹変したりするのではないか。そうでなければ私が、なにか信頼を損なうような取り返しのつかないことをしでかすのではないか。

 彼と付き合ってからの私は、妙に気性が落ち着いている。以前はときどき起こしていたヒステリーも、今では気配すら感じられない。これからもずっと、何事もなく穏やかにいられるだろうか。数か月前の夢のなかで、私は彼に向かってガラスのコップを投げつけていた。コップは座っている彼の顔を掠めて床にぶつかり勢いよく割れ、立ち尽くしている私を呆れたように睨んだ彼の顔は、現実では見たことがない表情をしていた。私はいつか本当に、彼にこんな顔をさせてしまうのではないか。

次のページ 目の前に止めてあった電動キックボードが、急に輝いて見えた