新小岩の南口にある、居酒屋・米屋。カウンター七席の小さな店に今夜も悩みを抱えた客が訪れる。定番のお酒と女将の手料理を口にすれば、いつしか心は軽くなり……。しかし、この店、実は大きな「秘密」があるのです。

「食と酒」小説で大人気の著者による、ちょっと不思議でしみじみ温かい居酒屋物語。シリーズ第一話「イタリアンの憂鬱」を全文無料公開


『ゆうれい居酒屋』(山口 恵以子)
『ゆうれい居酒屋』(山口 恵以子)

第一話 イタリアンの憂鬱

 ストンと落ちる感覚で、秋穂あきほはハッと目を覚ました。ちゃぶ台に突っ伏したまま、うたた寝をしていたらしい。

 顔を上げて柱時計を見上げれば、午後四時を回っている。そろそろ仕込みを始めなくてはならない時間だ。

「ふぁ~あ」

 秋穂は両手を上げて大きく伸びをすると、立ち上がった。声には出さないが、心の中では自然に「どっこいしょ」の掛け声がかかる。こんな年寄りじみた言動を自分がするようになるとは、若い頃は想像もしていなかった……。

 しょうがないか、もう五十だし。

 苦笑いをかみ殺し、茶の間に続くちゆうぼうに降り立った。

 しんいわ駅はそう線の快速停車駅だが、両隣のひら駅といわ駅に比べると駅ができたのは三十年ほど遅かった。それで、本当は「しもうさまつ駅」という駅名にしたかったのが「小岩の手前の駅」というほどの意味で「新小岩駅」になったという経緯がある。

 駅の南側にはルミエール商店街という、かつて日本一の長さを誇ったアーケード商店街がある。各地でシャッター通りとなる商店街が増える中、すべての店が営業しているのは立派と言う他はない。

 その周辺の路地にも小さな飲食店が軒を連ねていて、駅に近い場所にはラブホテルも数軒存在する。これは戦後、かめいどで空襲にった業者が小岩と新小岩に移転して「赤線」を形成した名残だろう。

 つまり新小岩とは、気取らない下町の繁華街であり、ちょっぴりレトロでいかがわしさも残る地域なのだった。

2024.06.12(水)