二十年間注ぎ足してきた煮汁には、充分に下茹でして臭味を抜いた牛モツの旨味がたっぷりと染み出している。その煮汁を吸った牛モツが不味かろうはずがない。しかも、よく煮込んであるので、箸で千切れるくらい柔らかくなっている。お供の大根、人参、ゴボウ、こんにゃくも良い味に仕上がった。
秋穂はモツ鍋をかけたガス台の火を一番細くしてから、カウンターを出てエプロンを外し、洗濯し立ての白い割烹着を身につけた。おしゃれはしないが、清潔だけは心掛けている。
暖簾を表に出し、看板の電源を入れ、戸口にぶら下げた「準備中」の札を裏返して「営業中」に替えた。
米屋は小さな店で、カウンター七席しかない。ざっかけない居酒屋だから高い料理は出していない。それでも何とか食べていけるのは、自宅兼店舗で家賃が発生しないからだ。
いつもなら、六時に店を開ければすぐに常連さんが顔を見せてくれるのだが、この日は一時間経っても一人もお客さんが入らない。「変ねえ。どうしたのかしら」
秋穂は手持ちぶさたでラジオを点けた。有線放送は入れていないので、FMで音楽を聴く。AMはプロ野球のシーズンはみんな野球中継になってしまう。
ラジオから米米CLUBの「浪漫飛行」が流れてきた。続いて、徳永英明の「壊れかけのRadio」、竹内まりやの「シングル・アゲイン」……。
ふと気がつくと耳にチェンバロの曲が飛び込んできた。番組がクラシックに変っている!?
やだ、立ったまま寝てたのかしら?
あわてて時計を見ると、すでに針は十時を回っている。煮込み鍋を覗いたが、ごく弱火にしてあるので煮立ったりしていない。
ホッと胸をなで下ろすと、ガラス戸の向こうに人影が見えた。
「いらっしゃいませ!」
秋穂は素早くラジオを消した。
入ってきたのはまだ若い男の客だった。初めて見る顔だ。米屋の客層は中高年男性が主体なので、珍しい。
2024.06.12(水)