よね秋穂は駅裏の飲食街で「米屋よねや」という居酒屋を開いている。お米屋さんと間違われるから屋号は「よね屋」にしようと言ったのに、夫の正美まさよしは「面倒臭いから、これで良いじゃん」と、看板もれんも既製品の「米屋」で間に合わせてしまった。もっとも、飲食店の建ち並ぶ真ん中で、米屋と居酒屋を間違える人はいないだろうが。

 その正美も、十年前にしんきんこうそくで亡くなった。いや、本当は死因が心筋梗塞かどうかは分らない。朝、秋穂が目を覚ましたら、隣で寝ている正美が息をしていなかったのだ。眠っているとしか思えない死顔だった。枕にキチンと頭を乗せたまま、安らかな表情で、苦しんだ様子はみじんもなく、今にも目を開けそうだった。

 だから秋穂はすぐに一一九番に電話して「あのう、主人が息をしてないみたいなんですけど」と言ってしまった。後から考えればばかげているが、その時はどうしても正美がすでに死んでいるなどとは信じられなかったのだ。

 秋穂は包丁を握る手を止めて後ろを振り返り、厨房の隅に飾ってある正美の写真に目をった。

 あんたのお陰で、とうとう飲み屋の女将おかみになっちゃったわよ。

 写真の正美はどこ吹く風で、のんびり微笑ほほえんでいる。釣り用のキャップとベストを身につけて。「釣りバカ日誌」のハマちゃんさながらの釣りマニアだったので、遺影まで釣り船で撮った写真になってしまった……。

 壁にはちようかの魚拓が何枚も貼ってある。それが古ぼけて殺風景な居酒屋の、唯一の装飾だった。たいひらなどの大物は、釣り上げたときと魚拓を取るときと二度うれしいらしく、魚に墨を塗る正美のとした表情を、今でも昨日のことのように思い出す。

 秋穂はお玉を手に、なべからゴボウと牛モツを一切れすくい、小皿にとって味を見た。煮込みに味が染みれば仕込みは完了だ。

い!」

 景気付けに一声上げた。

2024.06.12(水)