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異文化が押し寄せ、重なる街
この日は滝瀬海岸に始まり、江差の街、江差追分会館、Café香澄、開陽丸記念館、鴎島灯台とたくさんの場所に立ち寄った。夷王山にも行き、さらにはカメラマン氏がハンドルを握る車で一時間半ほどかけて函館の街に着いても、まだ日は沈んでいない。ぼくは「なるほど夏至」とうなずきながら宿に入った。
夕食のあと、「海と日本プロジェクト」の阪口あき子さん、山口健さんと合流する。阪口さんはバイタリティと地元愛にあふれた方で、会社を経営されたあと、いまは観光PRに携わっておられる。
寡黙かつ腕利きの補佐役といった佇まいの山口さんの運転と阪口さんの案内で、夜の函館を見て回る。赤レンガ倉庫、公会堂、教会などの洋風建築は異国情緒にあふれていた。
函館ハリストス正教会のひときわ高い尖塔に、ぼくは目を惹かれた。もとは幕末に建てられたロシア帝国領事館の付属聖堂で、大正五年(一九一六)にいまの姿となっている。
函館はロシアとの関わりが深く、その歴史はまだ日本が鎖国していた寛政五年(一七九三)、遣日使節ラクスマンの来航にさかのぼる。幕末の開港を経て明治に入ると、函館は露領漁業の基地となり、日本船が出かけるだけでなくロシア船が来るようにもなった。ロシア革命後は亡命者が街にチョコレート店や喫茶店を開き、昭和になるとソ連漁業会社の進出やロシア語新聞の創刊があった。いまも旧ロシア領事館が函館の街並に色を添え、ロシアの大学が分校を置いている。国家間の関係が揺らいでも、連綿と培われた人どうしの関係は揺るがず続いてほしいと思った。
ところで、函館のあちこちには黄色く塗られた消火栓がある。溝を彫った円柱に半球の蓋をかぶせた形で、欧米の映画に出てきそうな風情である。阪口さんによると戦前にアメリカから取り寄せたカタログや実物を手本に、函館で設計・製作されたものだという。
ロープウェイで函館山に登れば、有名な百万ドルの夜景が待っていた。左右がくびれた陸地いっぱいに瞬く光に、ぼくは座右の銘としている「花より団子」の言葉を忘れて見とれた。
展望台の裏手に回れば、津軽海峡が広がっている。夜だから海面は真っ暗だが、まぐろで名を馳せる青森県大間町の明かりがはっきり見えた。こんなに本州に近いとは直に見るまで知らなかった。
かつての函館には道南十二館のひとつ、宇須岸館があった。宇須岸はアイヌ語のウスケシ(入り江の端)、もしくはウショロケシ(湾の端)から来ている。江戸時代には松前、江差と並ぶ松前三湊に数えられるほど発展し、幕末に開港地となり、ロシアの人々と交わり、アメリカ製の消火栓が設けられた。
さまざまな人や物が波のごとく寄せては返し、いまの函館が形作られている。
2023.12.14(木)
文=川越宗一
写真=橋本篤
出典=「オール讀物」2023年12月号