現代的なテイストが感じられる作品を一気に紹介
現代的なテイストが感じられる「敵を作ろうとしない」物語としてまず紹介したいのが、漫画『ルリドラゴン』と『正反対な君と僕』だ。2作はいずれも、旧来であれば衝突が起こりそうなシチュエーションに登場人物を置きながら、それが発生しないさまを描いている。
『ルリドラゴン』は、ある朝起きたら頭にツノが生えていた女子高生・ルリを描く日常劇。そんな状態に陥ったら大混乱に陥りそうなものだが、母親からはさらっと「父親が龍」と言われ、ルリはなんとなく受け入れる。「ツノ生えただけだしな」「生えてしまったもンはしょうがない」と普段通り学校に通う展開が斬新だ。つまりは、事件を事件として使わない作劇。学校でも「面白い」と注目こそされ、排斥しようとする同級生は皆無で、むしろルリが戸惑うほど。異分子がハブられない空間が出来上がっていて、当の本人が驚く構造になっているのだ(もちろん、“戸惑う勢”もゼロではない、という演出が効いている)。
先生からも「普通の人間社会でもよくあることです。普通とは番う特性を持った人がいることなんて」「世の中いろんな人がいるもんです」「まあ仲良くやっていきましょう」とさも当然のこととして受け入れられるなど、作品全体にピースフルな空気が漂う。こうした作品は往々にして「差別」「偏見」が発生し、「衝突」「議論」を経てそれが氷解していくところにドラマ性を見出すものだが、こと『ルリドラゴン』においてはそれらをすっ飛ばし、旧来の作品のゴールから物語が始まる。
むしろ、自分の中にある偏見が露わになるのはルリの方で、外見で「苦手」と自己判断していた同級生に「話してみて苦手がとれたらそれでいいし、苦手なままでも仲良くなりさえすれば敵にはならないじゃん?」と諭される。主人公が自身の変化=ツノが生える前から自分の中にあった相互理解を阻む思い込みに気づき、改めることで人間的に成長していくさまが丁寧に描かれるのだ。
『正反対な君と僕』も同様の意識が感じられる青春群像劇で、物静かな男子学生・谷とギャルの女子学生・鈴木という“正反対”なふたりの恋愛物語にとどまらず、スクールカーストを生み出さない部分に大きな強みがある。鈴木と谷を中心にして、クラスの「接点がなさそうな人々」が対等につながっていくのだ。
本作で象徴的に描かれるのは、対話の重要性。タイプが違う鈴木と谷は、属性が違うからこそお互いの気持ちを言葉にし、互いに理解を深めていく。ぱっと見「陽キャ」な鈴木の友人・山田は自分の裏表のなさが他者にどう見えるかを考えるようになり、ニヒリストな平は、「枠」や固定観念に囚われている自分自身に対し、自己嫌悪を抱えている。恋愛もので重要な事件になる「元恋人の登場」も、「付き合っちゃえよ」的な「集団のノリ」によって生まれてしまった過ちとして描かれており、今カレVS元カレといった修羅場に発展しない。「みんなパブリックイメージに悩み、自分がどう見られているか葛藤し、自己アイデンティティを自問自答しながら生きている」という状態が毎話確認できる。当たり前のことだが見落としがちな「属性<心」を丁寧に紡いでいる印象だ。
衝突や対立、さらにはその果てにある和解ではない形で、異なる他者が親密になるさまを徹底して優しい目線で描いた『ルリドラゴン』と『正反対な君と僕』。これらはある種、時代の先端にいる作品といえるかもしれない。その他、間をつなぐ作品としては人と人ならざる者が共生する不思議な町を描いた『GLITCH』や、魔法少女もの×お仕事漫画『株式会社マジルミエ』等が挙げられるだろうか。『GLITCH』では、子どもたちと(一部の)大人たちの価値観のズレを描いており、異種族を敬遠する大人に対して子どもが「見た目が違う。話す言葉が違う。そういうことで勝手に怖いと思うのは、偏見だ」と主張するセリフが登場する。
『株式会社マジルミエ』は、“怪異”と呼ばれる自然災害に対処する専門家=魔法少女が職業化した世界の物語。本作では多種多様な魔法少女が登場し、衝突や対立が起こるものの、誰かを悪とするのではなく「皆が仕事に懸命に向き合っており、そのアプローチが違うだけ」というような描き方が統一されている。各々に自身の経験によって培われた仕事論があり、「良い仕事をしたい」というゴールは同じ。お仕事漫画を盛り上げるための装置としての悪役=敵がいない本作は、実に爽やかだ。
ただ一方、それはあくまで「理想」であり、現実社会はなかなかそうはいかないよ……というのも、我々の実感としてあるはず。みんなが仲良くいられればいいけど、まだそこには到達できていないという問題提起――。多様性を標榜する社会が生んだ闇、他者を尊重しようと努めるなかで逆に際立つ“歪み”をえぐり出す、シビアな目線が光る作品もまた、“いま”のリアルを的確にとらえたものだ。
2022.12.05(月)
文=SYO