芥川賞に輝いた“あの作品も”……。
まずは、第167回芥川賞に輝いた小説『おいしいごはんが食べられますように』。食品や飲料のラベルパッケージを製作する会社の支店を舞台にした本作は、“食”を題材に人と人の不和/不寛容を描く。自炊を時間や労力の無駄と考える人物、「料理=女性らしい」という偏見に苦しむ人物、料理をすることが生きがいの人物といった三者の姿が描かれていくのだが、興味深いのは表面的な衝突も歩み寄りも描かれないということ。ただ各々が心の内にストレスを溜め込んで、しかしそれをほとんど表面化させないのだ。
キーとなるのは、社内で「護らなくてはならない」認定をされている芦川。正社員でありながらパートと同じ時間に帰る彼女は、体調を崩しやすいため研修会なども参加せず、繊細なメンタルで、すぐ泣いてしまう。彼女自身も他者に迷惑をかけていると自覚しているため、「せめて」と手作りのお菓子を毎日のように持参して社員に配るのだが、先輩の二谷や後輩の押尾からしたらその行為自体が根本的にズレている……といったような物語だ。
二谷は手料理に対して関心がなく、カップラーメンや居酒屋での食事に安心するような人物。そんな彼にとって、毎日のように差し出されるお菓子を「食べなければならない」状況――明確に強いられてはいないが、拒否できない同調圧力は苦痛でしかない。しかし彼は、その本音を人前で出さない。頭の中で残酷な想いを抱きながら、どこか軽蔑している芦川と深い仲になっていく。
いわゆる「仕事ができない」タイプである芦川のしわ寄せを食う押尾は、芦川が鼻についてしょうがない。「仕事で返せ」と憎悪を募らせていくが、本人に直に言うことはない(顔や態度には出てしまっているが)。支店長補佐の藤は芦川の飲みかけのペットボトルに勝手に口を付けるような人間だが、周囲に気持ち悪がられる程度でそれが大きな問題に発展することはない。芦川は芦川で、「かわいそうな人物」でありつつもどこか(おそらく無意識的に)したたかであり、何やら恐ろしい。
本作に登場する人物は皆、腹で抱えている本音は生々しいのに、すました顔で社会生活を送っていて、読む側が心から信用することがなかなか難しい。ただ、これこそが「今の我々」を示しているのではないか。面と向かって対話し、お互いの非を認めて良好な関係を新たに構築しようとするなんてのは、面倒でカロリーを使う。だったら適度に我慢して、適度にガス抜きして何とかやり過ごそう――と考える人の方が、ひょっとしたら多いのではないか。『おいしいごはんが食べられますように』は、敵を作らないようにする社会で我々がどう生き抜いているか、ベストではないもののベターな選択肢を取ろうとしている“現状”をあぶりだす。この感覚が恐ろしいほどに鋭敏で、腹の内を探り当てられてしまったような気持ちにさせられる。
そして、本作が非常に効いているのは先ほども軽く触れた「多様性の尊重」によってマジョリティが割を食う姿を残酷に描写していること。前の職場でハラスメントを受けていた「らしい」芦川にどう接するか、その対応によって歪みが生じてしまうのだ。
「芦川さんは予定外のことが苦手ってやつ、多分そのとおりなんだろうなって思うんですけど、別に芦川さんがそう言ってるわけじゃないじゃないですか。でも(中略)配慮してる。それがすっごい、腹立たしいんですよね」
「まあ、でも、そういう時代でしょう、今」
「分かってます。でもむかつくんです」
「職場で、同じ給料もらってて、なのに、あの人は配慮されるのにこっちは配慮されないっていうかむしろその人の分までがんばれ、みたいなの、ちょっといらっとするよな」
これは、居酒屋での押尾と二谷の会話だ。他者に思いやりを持って接して、配慮しなければならない。それは良いことだ。でもその結果、自分が損していることへのいら立ちはどうしたらいい? 敵を作らないようにする現代社会の中でマジョリティが行う「配慮」を「我慢」と捉えてしまった結果、そこには生きづらさが発生してしまう。それを問題提起するのではなく、現代の肖像として淡々と描き出した著者:高瀬隼子の筆力に驚かされるとともに、我々が生きるいまの危うさを再認識させられる(ちなみに彼女の著作はセックスレスを題材にとった『犬のかたちをしているもの』、夫がある日風呂に入らなくなった『水たまりで息をする』、そして『おいしいごはんが食べられますように』と、いずれも日常に起きる事件と人間関係の変容を描いている)。
2022.12.05(月)
文=SYO