善と悪の単純な二項対立を描く作品が減ってきた……?

 小説や映画、漫画に音楽、演劇に美術……多くの表現物は時代の中から生まれ、時に時代を先行するものでもあろう。それは作り手たちが意識的/無意識的に時代の空気を吸い、“におい”を感じ取っているからでもあり、読者や観客といった受信者たちもまたそうであるため。過去の作品を「いつ観るか」で感じ方が変わるように、受け取る側の変化/状態には時代性というある種の“バイアス”も影響を及ぼしている。

 …と久々の連載更新で硬めに入ってみたが(なかなか新たなコラムが書けず、前回から期間が大幅に空いてしまい申し訳ございません!!!)、要は「作品を観るときにやっぱり時代性を感じちゃうよね」という話。

 特にこういった仕事をしていると、作品同士をつい体系づけてしまうところがあるのだが――ここ最近、自分が興味を持って観る/読む作品において、「これはある種の“時代の片鱗”なのでは?」と感じるものがいくつもある。

 それは「“敵”がいない」というもの。2008年の映画『ダークナイト』以降、善と悪の単純な二項対立を描く作品が減ってきたかもしれない、という文脈のもう少し“先”を見た感覚を抱くことがこのところ多く、今回はそれを大テーマとして直近の小説や映画、漫画等を挙げつつ考えていきたい。

 まず、“敵”についてざっくりと考えていこう。わかりやすいのは、世界情勢や時代の流れがダイレクトに反映されやすいハリウッド映画――その中でもアクション系の作品だ。

 たとえば冷戦を反映してソ連が敵国として描かれた時代もあれば、ベトナム戦争後には自国を告発するような視点の作品が増え、9.11後には一時的に戦争映画の(意識的な)ブームがあり、今現在は「敵はどこにいる?」というようなフェーズが続いている印象だ。多いものは、「自国から敵が生まれてしまう」というもの。

 マーベル映画の『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(14)では、敵が国家の中枢に溶け込んでいる展開が描かれ、『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(21)では、「誰が敵か味方か、見分けがつかない」「昔は直に敵と対決できたが、いまや敵は空中を漂っている」というようなセリフが登場する。

 これはあくまで一例だが、『ジョーカー』(19)のように「社会が敵(ヴィラン)を生んでしまう(そして観客が共感してしまう)」作品や、連続殺人犯の“居場所”を描き、第74回カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールに輝いた『TITANE/チタン』(21)、スーパーヒーローの偽善を暴こうとする『ザ・ボーイズ』(19~)といった作品も絡み、敵と味方が具体的な線引きなく存在する混沌(カオス)が“現代風”のひとつの特徴といえるだろう。

2022.12.05(月)
文=SYO