話題作にも多い「敵を作ろうとしない」物語

 これは映画に限らず、「俺は正義の味方(ヒーロー)じゃない」「歯車の一つに過ぎない」と自分たちを語る『呪術廻戦』や、主人公が敵対ではなく、あくまで生活のために悪魔を殺す『チェンソーマン』にも、こうした時代性が感じられる。ヒーローとヴィランの対決を描く『僕のヒーローアカデミア』も、根底には「個性という人類に発現した“進化”によって振り回される人々」が流れており、ヒーローが自分の尺度で語る“普通”がヴィランを傷つける描写がみられる。つまり、絶対的な正義というよりも、主義の違いによってヒーローとヴィランに分かたれ、対立構造が生まれるという構造だ。現在放送中のTVアニメ第6期はまさにそうした展開の連続で、ヒーローがいることで否定されるヴィランがいなくならない=ヒーローはマッチポンプであるというヴィラン側の論調や、「理解できなくていい。できないからヒーローとヴィランだ」というセリフが印象的に描かれる。

 片や、明確な敵が登場する『トップガン マーヴェリック』(22)では、具体的な国名ではなく「ならず者国家」という呼称が使用されており、各国でのセールス的な意味合いがあるにしてもこうした味付けが興味深い。こう考えると、悪人が悪人らしい『SPY×FAMILY』は「現代劇ではない」のがミソといえるかもしれない。昔懐かしい雰囲気が漂うことで悪党が特に共感を求めない役割として躍動できたり、「結婚していないと怪しまれる」といったような前時代的な価値観を“その時代の”一般論として登場させたうえで破壊できる。

 『鬼滅の刃』も時代物だが、本作は「鬼も元は人間=どこまでいっても人間同士の戦い」という設定で今風のドラマ性を担保しつつ、ラスボスの鬼舞辻無惨を混じりけなしの唯一悪にすることで「敵」の像を確立させている。反対に、キャラクターの印象が目まぐるしく変わる『タコピーの原罪』などは、「子ども」というバイアスを読者に外させたりと、現代的なアプローチが光る(原作者タイザン5の新作『一ノ瀬家の大罪』は、こうした特徴を記憶喪失というよりわかりやすい設定に昇華)。

 …と、駆け足で紹介したが、敵と味方がはっきり分かれない物語にある種の“真実味”を感じるようになってきた感のある昨今。そこにはやはり「多様性(ダイバーシティ)」の意識も少なからず影響しているだろう。多様な価値観を持つ人々が相互理解し、手を取り合って共生していくことこそが平和である、という認識がより広がった現代においては、ある特定の人物や集団を排斥・糾弾する物語はやはり手放しで歓迎しにくい。単純明快な対立関係は表層的に映り、どこかしら「古さ」を感じてしまう要因にもなっており、こうした感覚の変遷が冒頭に述べた「敵がいない」物語、もっというと「敵を作ろうとしない」物語へと繋がっていく。

2022.12.05(月)
文=SYO