ミラノ・スカラ座との
粘り強い交渉エピソード

2010年に開催された『奇跡の饗宴』。ズービン・メータ指揮イスラエル・フィルとベジャール・バレエ団、東京バレエ団によって『ペトルーシュカ』『愛が私に語りかけるもの』『春の祭典』などベジャールの名作が上演された。

 追分日出子さんが佐々木忠次さんに集中した取材をしたのは17年前の2000年。雑誌「AERA」の記事のため3カ月ほどかけて長時間のインタビューを行った。そのときから、佐々木さんはご自身のことを嬉々として語り、生い立ちや家族のこともすべてオープンにしていたという。出来上がった「AERA」の記事を佐々木さんは大変気に入り、掲載誌を200冊買い込んで周囲に配っていたほどだった。

「佐々木さんは結構本音を語ってくれました。『アンタ聞き上手だね』『今日は喉が痛いのよ』なんて言いながら、サロンの自慢話をしてくれたり。そのときの膨大なテープ起こしが、壊れたパソコンの中に入っていたのですが、それが復元されなければこの本は書けなかった。長野のデータ復旧会社に頼んで奇跡的にデータを取り出すことが出来たのは、佐々木さんの執念でもあったと思います。ご自身の仕事を何かの形で伝えたいと思っていた方だったので」

「ザ・カブキ」は、海外公演でもつねに熱狂的な賛辞を浴びる「忠臣蔵バレエ」。ベジャールと佐々木忠次の友情の象徴であり、和洋の美意識が衝突する世界が観る者に衝撃を与える。

 佐々木さんの業績とは、一言で言えるようなものではない。フランス、ドイツ、イギリス、ロシア等の名門カンパニーを招聘し、中でも「実現までに16年かかった」ミラノ・スカラ座との交渉時のエピソードは強烈だ。

 何度も約束を破られ、「日本人にオペラが分かるのか」と言わんばかりの扱いを受け、それでも粘り強く対等な交渉を求めた。マッカーサーに「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」と嚙みついた白洲次郎のエピソードを思い出す。

 奇妙な偶然だが、この原稿を書いている最中に、パリ・オペラ座バレエ団の来日記者会見があり、ダンサーとともに総裁のステファン・リスナー氏も登壇した。リスナー氏は以前ミラノ・スカラ座の総裁を務めていた人物で、佐々木さんがスカラ座と長年かけて交渉を成功させた業績をよく知り、心から尊敬していた。仕事の偉大さとは、こんなふうに時差をともなって人の心に足跡を残すものなのだ。

 また、佐々木さんは少年時代からオペレッタへの憧れを募らせ、それがウィーン・フォルクスオーパーの招聘の実現につながり、2016年の来日公演は亡くなった直後に行われた。佐々木さんとフランスの振付家モーリス・ベジャールの不滅の友情の証である『ザ・カブキ』も昨年再演された。心の中に芽生えた夢を、華やかな現実に変えることが出来た人が佐々木さんだった。

2017.03.11(土)
文=小田島久恵