ヘリコプターの謎の行先

 高後埼灯台をあとにした私たちは、午後の高速船に乗って小値賀(おぢか)島へ渡った。じつはこの小値賀島こそが、私が今回の旅で提示した第一候補地だったのだ。ここで私が小値賀島に執着する理由を説明させてほしい。

 コロナ禍のさなか、私は某紙で紀行文を書かせてもらっていた。二〇一九年四月から二〇二二年三月までの三年間、方々へ出かけていっては、月イチで新聞に紀行文を書き散らしていた。

 親愛なる読者諸賢は、あのころを憶えておいでだろう。ソーシャルディスタンスが叫ばれ、三密が避けられ、マスクをしない愚か者は蛇蝎の如く忌み嫌われ、誰もが戦々恐々としていた。

 のっぴきならない事態だった。こっちは紀行文を書かねばならないのに、くそったれのコロナのせいでどこへも行けやしない。なんといっても、東京オリンピックの観戦記ですらテレビを観て書かなければならなかったのだ。

 私の苦難にかかわりなく地球は回るし、相変わらず明日はやってくるし、締め切りだって時間にうるさい人みたいに待っている。事態を打開してくれたのは、紙面で私の旅エッセイ欄を担当してくれていた新聞記者氏だった。

 忘れもしない二〇二〇年の夏、私は行先も告げられぬまま、福岡市東区の奈多(なた)ヘリポートへ連れて行かれた。戦争中は旧日本軍の雁ノ巣飛行場だったそのヘリポートで私を待っていたのは、もちろんヘリコプターだった。ほかになにがある? 私は目をぱちくりさせて尋ねた。

「どういうことですか?」

 すると記者氏がにやりと笑って、私を機内へと促した。

「さあ、マジカル・ミステリー・ツアーと洒落込みましょう」

 生まれてはじめて乗ったヘリコプターに、私はひどく興奮していた。行先をいっさい知らされていなかったので、なにが飛び出してくるのか見当もつかなかった。わかっていたのは、私たちのヘリコプターが一貫して西へ進路を取っているということだけだった。

 その日、私は空中からじつに多くのものを見た。平和公園や軍艦島も見たので、長崎県のあたりを飛んでいるのは間違いなかった。北海道に次いで、長崎県は全国で二番目に多くの灯台を有している。佐世保管内だけでも百三十二基あるので、このときだってきっと何基も目にしたはずだ。

 ヘリコプターは順調に海を越え、徐々に高度を下げ、そしてついに午後の陽射しが燦燦(さんさん)と降りそそぐヘリパッドに着陸した。私たちが降り立った場所の名前が、ちっぽけな空港ビルに書いてあった。小値賀島。当時の私には、どう読むのかすらわからなかった。

 これで今回、灯台をめぐる紀行文を書くにあたって、私がこの島を選んだ理由をわかっていただけたと思う。リベンジと書いたのは、ヘリコプターで訪れた際に空港から一歩も外に出なかったためである。観光もなし、冷たいビールもなし。ただ滑走路を海辺までとぼとぼ歩いただけで、またそそくさとヘリコプターに乗って島を出ていった。

 五島列島の北部に位置する小値賀島は人口二千人強、さほど大きくもなく、全国的には無名に近いが、とうとう上陸を果たした私は感慨もひとしおだった。真っ赤な太陽が海に落ちようとしていた。

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