恃照は大声を出す代わりに、一音ずつ区切った。

「自らのことは自らが一番よう分かっておる」

 己の口臭に眉を(ひそ)めつつも、恃照は続けた。

「恃照自身がこう言うておるのだ……それで十分であろう」

 口内のねばつき、喉の渇きでうまく伝えられるか自信がなかったが、以下のようなことを、(ひざまず)く小僧らの頭頂部に囁きかけた。

「わしはの、三匝くらい人の手を借りずに成就したいのだ。できることならば、すべてを己のみで完遂したいところだが、そうはゆかぬ」

 堂入りの九日においては、行者は毎夜一度堂を出て、不動明王に捧げる水を閼伽井(あかい)と呼ばれる井戸へ取りに行かねばならぬ。距離にしてわずか二町(約二百メートル)ほどである。にもかかわらず、最初の三日間こそ自らの力だけでかついだ天秤棒の両端にぶらさがる桶を支えることもできたが、四日を過ぎた頃――身体が屍臭を放ち始めた頃――になると、前後を小僧に支えられてでなくば一歩も進むことはできなかった。その取水に、手間取るとなると半刻(約一時間)ほどかかることもあった。それは恃照に限らず、先達も同様であった。

「しかし」

 明らかに狼狽(ろうばい)している小僧らに、恃照は微笑みかけた。

「お主らに累が及ぶようなことにはさせぬ……聞き届けてはくれぬか」

 小僧らが恃照への追従を止めると、恃照は再び憲雄を見た。恃照の師僧はややあって、小さく頷いた。左右の高僧が狼狽するのを、憲雄が目で制した。

 信じておるぞ、恃照――。

 恃照には、憲雄の目がそう訴えているように感ぜられた。

 恃照の三匝二周目も、半ばに差し掛かった。

 恃照の身体に異変はない。もう少し歩幅を大きゅうしてもよいとさえ思えた。明王堂の内外には大勢の一門住持や小僧、信者たちが詰めかけている。八ツ半(午前三時頃)を少し過ぎた冬の寒空の中、一人の阿闍梨の誕生を今か今かと待ち侘びているのである。

 恃照は意を決して、これまでよりも大きく踏み出した。板敷の床を踏む足の裏に、木の感触が返ってくる。鳥の(さえず)りが耳朶に触れた。一足早く、恃照を祝福してくれているようだった。不動明王に礼拝(らいはい)しながら、恃照は一歩一歩、着実に進んでいく。

2025.09.22(月)