第32回松本清張賞受賞作、住田祐さんの『白鷺立つ』が2025年9月10日に発売となります。

 本作は江戸後期の比叡山を舞台にした、異形の本格歴史小説。恃照と戒閻という仏僧の師弟が、「失敗すれば死」といわれる過酷な修行〈千日回峰行〉に挑む姿を劇的に描き出す、強烈なデビュー作です。

 二人はなぜ〈千日回峰行〉に挑むのか。そこには彼らが抱える“やんごとなき秘密”が関係していて――。冒頭30ページ分をためし読みでお届けします。


 冬の叡山(えいざん)は水墨画を思わせる。

 そのような叡山も、朔月(さくげつ)の未明は墨に染まり、山内の木々や堂宇(どうう)のすべては寒風に(おど)されているかのように縮こまり、黙りこくっている。

 それら堂宇の一つ、東塔無動寺谷(とうどうむどうじだに)明王堂(みようおうどう)は、南光坊(なんこうぼう)天海(てんかい)建立(こんりゆう)と伝わる六間半(約十二メートル)四方の古堂である。

 明王堂内陣の護摩壇(ごまだん)に座す僧の正面には、九日間相対してきた不動明王がある。僧と明王像との間合いは変わらぬはずであるが、あたかもそれが夜を日に継いで縮まっていき、もはや僧の眼前にその忿怒(ふんぬ)の形相を突き付けているようであった。

 堂内には白檀(びやくだん)の香煙が漂い、僧の鼻腔を(いぶ)してやまぬ。僧は己の衣擦れが耳朶(じだ)に直に触れるが如く感ぜられた。僧の唾は汚泥の如く舌下に沈淪(ちんりん)し、僧の瞳孔の開ききった目には蝋燭の細い火がゆらゆらと映じている。

 恃照(じしよう)は念珠を繰る手を止めた。

 ここまで来た――。

 歓喜ではない。安堵でもない。ここまで来た、という音のみが恃照の心中へ繰り返された。

 恃照は九日間、断食、断水、不眠、不臥(ふが)を貫き、日に三度の勤行(ごんぎよう)のほかは、十万遍の不動真言をひたすらに唱え続けてきた。

 北嶺千日回峰行(ほくれいせんにちかいほうぎよう)の明王堂参籠(さんろう)――通称堂入りは、同行において最も過酷とされている荒行である。堂入りの前に行者を囲んで催される儀式は生き葬式とさえ呼ばれるが、これは行者の死を想定していることを明確に示している。

2025.09.22(月)