堂入りのあとも千日回峰行は続く。しかしその厳しさから言えば、堂入りは同行の(とうげ)にあたり、恃照はまさにその峠を越えんとしているのであった。

 堂入りを終えれば当行満(とうぎようまん)となり、行者は阿闍梨(あじやり)と称されることになる。

 平安朝前期にこの明王堂を開基した相應和尚(そうおうかしよう)以降およそ千年の歴史を持つ同行の、記録上二十人目の当行満阿闍梨、さらに堂入り後に同行を満行し大行満大阿闍梨(だいぎようまんだいあじやり)としてその名を刻まんとするにあたり、恃照はその長く険しい回峰を都合五年間かけ、繰り返してきた。

 このあと二年を費やし、およそ三百日間の回峰が待ってはいるものの、この堂入りが成就するか(いな)かが、同行を満ずるか否かを左右すると言っても過言ではない。

 三年前の寛政五(一七九三)年に正教坊(しようきようぼう)聖諦(せいたい)が同行を満行、つまり大行満大阿闍梨となったとき、叡山には三名の僧が次なる大阿闍梨にならんと千日回峰行に挑んでいた。

 叡山はこの千日回峰行を絶やさぬよう、百日回峰行を満行した者からこれぞと見込んだ僧を選び、同行に当たらせている。ただ、あくまで僧自身の申し出があることが前提である。申し出を通すか否かを、先達の大阿闍梨らを含む谷の住持らが判定する。

 果たして、恃照の発願(ほつがん)は叶った。以来、恃照は命を賭して同行に励んできたのであった。

 というのも、この北嶺千日回峰行は失敗が許されぬ。行者は死出紐(しでひも)と短剣を帯び、毎夜七里半の回峰に出る。叡山の山谷を巡る途中でそれ以上歩を進められぬようになった場合、その紐で首を(くく)る、もしくは短剣で自害する覚悟で行に挑まねばならぬのである。蓮華笠の紐の付け根に結わえ付けられている六文銭は、三途の川の船賃というわけである。

 恃照は三名の中で最も早く行に入った。順調にことが運べば、恃照、そしてその後の二名が三年続けて大阿闍梨となることになる。道を作ると言うとおこがましい気もしたが、恃照はさまざまな意味でこの行を満ぜねばならぬ重圧を背負っているのである。

2025.09.22(月)