気のせいか、外が明るくなってきた気がした。日の出まではあと一刻(約二時間)以上あるはずであったが、これも我が出堂に合わせて出てきてくれたのかもしれぬと、恃照は意気いよいよ軒高となり、体内の水気が枯渇しきった身体とは思えぬほど、その動き滑らかであった。

 三周目に入る。堂内に控える人々の逸りが心の臓の音と共に恃照に迫ってくるようであった。

 (よわい)三十二の恃照が叡山に入って二十八年、出家得度から十七年。

 恃照は叡山に入ったそのときから千日回峰を強く望んでいたわけではない。

 恃照が得度を終えて三年後の冬、天候不順により、叡山の所領である上坂本(かみさかもと)下坂本(しもさかもと)は大凶作に見舞われた。この凶作は近江だけの話ではなく、全国に広がるものであった。

 折悪しくその翌年の七月には浅間山(あさまやま)が噴火し、噴煙に陽の光を遮られた稲は実をつけぬどころか、ろくに伸びすらしなかった。どの国でも、口減らしに子を売る者、他人を殺して施米を奪う者、その死体に群がり(むさぼ)()う者で(あふ)れていた。

 叡山はというと、市井(しせい)ほどには逼迫(ひつぱく)していなかった。幕府の庇護も厚い上に、檀家からの付け届けも少なくない。

 しかし、叡山の(かまど)はそもそもが火の車であった。各々の僧坊が持つ寺領からの実入りは限られており、足りぬ分を借銀として(まかな)わぬ坊はない。住持の中には地方の寺院の住持を兼帯し、少しでも実入りを増やさんと画す者すら多くあった。

 そこへ大飢饉が襲いかかり、ただでさえ少ない寺領からの実入りがさらに減った。大寺院としての叡山は、追い詰められていた。

 大寺院の中の一人の僧である恃照は、何も出来ずにいる己が歯痒かった。おそらく恃照だけではあるまい。叡山一山の、いや全国の僧の中にも、恃照と同じく己が僧としてできることがあるはずと唇を噛んでいる者はあるはずであった。

2025.09.22(月)