恃照は、憲雄だけでなく、叡山幹部が否とする理由も心情も重々承知していた。妙な仮定ではあるが、もし恃照自身が叡山幹部であったとしても、恃照の入行は絶対に允許(いんきよ)せぬはずであった。

 が、そうせずにはおれなかった。たとえ否決されるとしても、その意思だけは示しておきたかった。示し続けたかった。

 そして思いがけぬことに、憲雄が折れた。恃照の千日回峰入行は、至極あっさりと許されたようにすら見えたかもしれぬ。千日回峰を望む僧の入行の可否を断ずる谷会議(たにかいぎ)において、恃照の眼前に座す憲雄が恃照の入行を認める旨を宣したとき、恃照は夢を見ているのではないかと己が耳を疑った。谷会議が終わったあともその疑いは晴れなかった。

 憲雄には、礼よりもまずその疑いをぶつけた。憲雄は微笑し、ただ一言、さっさと始めてしまえと告げるだけであった。

 その数日後、憲雄が顔にいくつも(あざ)をつくって滋賀院(しがいん)門跡(もんぜき)から戻ってきた。滋賀院門跡は天台(てんだい)座主(ざす)の坊である。当時の座主は眞仁(しんにん)といった。師の覚束ない足取りを見るに、師の袈裟の内も推して知るべしであった。叡山幹部、ともすると座主その人に打擲(ちようちやく)されたに違いなかった。

 恃照はその痛ましい姿を認め、己の入行が本当に許されたのだと知った。恃照は憲雄に泣いて詫びた。

 果たして三年前の寛政五年晩春、恃照は浄衣に身を包み、未だ開かぬ蓮の葉をかたどった笠を左手に、右手に提灯を持ち、深更の玉照院(ぎよくしよういん)を出峰した。

 達せずば死の荒行に入行した以上、叡山は一山を挙げて恃照の千日回峰行を満行させるほかに道はなくなったのであった。

 それゆえ、今この明王堂の片隅に集まる高僧たちは情けないほどにうろたえるのである。もし恃照が行を中断せざるを得ぬ事態となれば、つまり恃照が自害することになれば、何らかの処分が叡山に降りかかってくるのは分かりきっている。叡山の竈がさらに追い詰められることもそうだが、高僧らが最も気を揉むのはもちろん、己が処遇である。

2025.09.22(月)