恃照の三匝はついにあと堂半巡を残すのみとなった。恃照の足の動きも、礼拝の動きも、一周目と特に大きな違いはなかった。

 堂内の緊張が次第に高まっていく。その流れとは逆に、恃照はいよいよ落ち着きを増し、足元を見、手元を確かめ、心の臓の鼓動を感じた。

 当行満阿闍梨、玉照院恃照。

 ついに、恃照は恃照になるのだ。わしは、わしになるのだ――。

 恃照が堂入りを行っている明王堂と同じく東塔に位置する根本中堂(こんぽんちゆうどう)中陣(ちゆうじん)では、昨冬にその座へ三度目の返り咲きを果たした天台座主が、数名の高僧と円座を組んでいた。

 時刻は七ツ(午前四時頃)に入らんとしている。まんじりともせず、皆一言も発さぬ。堂内も、皆の表情も暗い。

 聖諦は周りに気付かれぬよう、鼻からそっと息を抜いた。

 頭を巡ることは皆同じである。高僧らの眼球、首、指先、足先などがぴくぴくと動き、その動きで密談しているようであった。伝教大師最澄(さいちよう)が、延暦寺の前身たる一乗止観院(いちじようしかんいん)を建立したおよそ千年前から一度もその揺らめきを途切れさせたことのない不滅の法灯が、高僧らの影をわずかに揺らめかせている。

「遅い」

 歯嚙みする天台座主尊眞(そんしん)法親王は、ついに沈黙を破った。もう一刻以上もこの形で座している。一人の僧正が隣の僧正に目配せし、意を汲んだようにして口を開いた。

「そろそろ頃合いにござりまするが……」

 今千日回峰行堂入りを終えんとしている僧は、ただの僧ではない。

 恃照はその出自に秘匿せねばならぬ事情を有していた。他の行者は失敗しても、恃照だけは千日回峰行を失敗させてはならぬ。それは尊眞を含む高僧らを脅かすに十分たる大失態となる。

 そもそも、恃照の師である憲雄が谷会議で、あろうことか恃照の入行に賛成したことに、今回のことは端を発している。信頼を寄せていた憲雄だけに、叡山の怒りも凄まじかった。

2025.09.22(月)