座主を含む高僧らが待っているのは、堂入りしていた行者が出堂する際に鳴らされる、無動寺谷の鐘の音である。もういつ鳴らされてもおかしくなかった。
「聖諦」
座主にその名を呼ばれた聖諦が恭しく頭を垂れる。聖諦は座主の次なる言葉を待っている。
「見てき」
「……はっ」
座主に命じられた高僧はゆっくりと立ち上がると、摺り足で門に向かった。
聖諦の足取りは重い。
本堂を外廻廊に出ると、叡山の遠慮なき寒気が袍裳を通り越し、聖諦の膚に刺さった。
聖諦が門に至り、下駄を履いていざ明王堂へ歩き出さんとしたまさにそのとき、その明王堂から駆けてきたと思しき小僧が根本中堂への下り坂を転びそうになりながら降りてきた。
「も、申し上げます!」
小僧は、明らかに慶事ではないことをもたらしにやってきたといった体であった。
聖諦は、膝に手をついて息を整えんとする小僧を睥睨している。
「せ、聖諦大阿闍梨さま。申し上げます」
小僧は不器用に息継ぎをしながら、明王堂で出来したことを端的に伝えた。聖諦は瞑目し、唇を噛んだ。
「……相分かった。お主は明王堂へ戻るがよい」
小僧は深々と頭を下げると、再び今駆け下りてきた坂を登っていった。
聖諦は小僧の背中が次第に小さくなるのを、見るともなしに見つめた。
「恃照……」
聖諦は僧の名を口にし、踵を返した。
妙案
叡山は東塔、西塔、横川の三つの区域から成る。そしてそれぞれの区域は、谷と呼ばれるいくつかのまとまりによって構成されている。叡山の諸寺諸堂をすべて数え上げると百を超えると言われており、それらの総称を延暦寺と呼んでいる。
叡山は、「論湿寒貧」と形容されることがある。一字毎に叡山の性質が表されており、「論」は仏法をさかんに論ずる様子を指し、それ以降はみな字義のままである。
特に「寒」は筆舌に尽くし難く、真冬など堂宇の廊下を磨く前に流す湯が、流したそばからばきばきと音を立てて凍り始めるほどであった。
2025.09.22(月)