四年目と五年目には二百日を連続で歩き通す。百日あるいは二百日の間、行者は真言を唱えながら、叡山内のおよそ二百六十箇所の寺院や墓所にて礼拝し、樒の葉を供える。
都合七百日の回峰を終えると、終えたその日から明王堂にて「堂入り」と呼ばれる足掛け九日間の断水、断食、不眠、不臥の行に入る。
これが無事済めば、六年目に入る。この年の百日は、五年目までと同じ道程に、叡山の南西、御所の鬼門に位置する赤山禅院までの雲母坂の往復が加わり、毎日十五里(約六十キロメートル)もの距離を歩き通さねばならぬ。また、堂入りまでは自利行といってあくまでも己のための行とされているが、堂入りを終えた六年目からは他者のための行、化他行となり、京で行き交う人々の求めに応じ、加持を行う。
そして最後の年。まず百日間は京大廻りといって、叡山回峰に加えて京中を歩く。一日に歩く距離は二十一里(約八十四キロメートル)に及ぶ。それを終えれば、最後は七十五日間、最初の五年で歩いた七里半の峰道を歩く。
合算すると千日には二十五日ほど足らぬわけであるが、これは「残りの二十五日は生涯かけて達せよ」という意味が込められている。
玉照院憲雄は天明三(一七八三)年に千日回峰行を満行し、記録上十六人目の大行満大阿闍梨となった。史上でなく記録上と断るのは、元亀二(一五七一)年の織田信長の焼き討ちで叡山の諸堂が灰燼に帰し、それ以前の記録がほとんど残っていないからである。
玉照院へ駆けつけた聖諦を迎えたのは憲雄である。
大行満大阿闍梨どうしの間には厳格な序列があり、満行が早い順に上から位置づけられる。聖諦にとって憲雄は、いわば師のようなものであった。
「いかがにござりましょうか」
聖諦の言葉に、憲雄の表情は一層陰った。
「まだ気付かぬ」
憲雄の顔からは血の気が失せていた。
2025.09.22(月)