「このようなときにはござりまするが……憲雄さまこそどうか……お労りくだされ」
聖諦の労いに、憲雄は首を左右に振り、目を閉じた。
今朝、玉照院の恃照は、北嶺千日回峰行最大の難関と称される明王堂参籠――堂入りを、まさに終えんとしていた。衆徒の見守る中、それは成就するかに見えた。
三匝に入ってすぐ、恃照が小僧らの追従を制したときは憲雄の心中穏やかではなかった。しかし、愛弟子の足取りはしっかりとしていた。
ひょっとすると、わしが挑んだときよりも頼もしいやも知れぬ。よもや万一はあるまい――。
そのように思った憲雄だけでなく、その場にあった誰もが当行満阿闍梨の誕生を確信していた。
しかし三匝最後の周回で、それは起こった。
順調に歩を進めていたはずの恃照の身体が突如、前後左右に振り子のように揺れ始めた。堂内のすべての人々が息を止めた。そしてにわかにざわつきが伝播していった。
憲雄は一人冷静であった。いや、努めて冷静であろうとした。恃照に追従を禁じられた小僧二名にすぐさま目で合図し、歩を止めて揺れ動く恃照の傍に向かわせた。聡明な小僧らは憲雄の意を汲み、電光石火、恃照へ駆け寄った。
だが遅かった。
あと少し、およそ一間半、そのときの恃照にとって十数歩を残し、恃照はその場に派手に倒れこんだ。そのはずみで恃照の念珠の中糸が切れ、椰子で誂えられた百八の大平の珠が四方八方へ散じていった。
「恃照!」
憲雄は叫んで飛びついた。他の者どもは、ただただ動けなかった。
抱きかかえた恃照は、口から泡を吹いていた。
「恃照、起きるのじゃ。目を覚ませ、恃照!」
行不退。
おそらく、堂内にある者の中でこの三字が頭に浮かばなかった者はあるまい。しかし、憲雄はその三字を払いのけ、恃照の骨と皮ばかりになった肩を揺すり続けた。
我が子のように接してきた僧が、今その命を脅かされている。
2025.09.22(月)